2023年10月8日 聖霊降臨節第20主日礼拝
聖書 ヨハネの黙示録2章1~7節
説教 褒めること、注意すること
ヨハネの黙示録は、ヨハネによる福音書を書いたヨハネと同一人物であり、そのヨハネ
が聖霊による霊感を受けて書いたと言われています。
1.黙示録という意味
ギリシア語Ἀποκάλυψις アポカリュプシス 英語ではRevelationです。ローマ
の信徒への手紙16章25~27節「神の奥義の啓示」(2023年9月17日)と題して説教しました。その時、奥義とは「秘められた計画」のことであり、それが啓示されることを言いました。覚えておられるでしょうか。蔽いがかかって隠されていたものが明らかにされること。それは神が人となられたこと。イエス様ですね。その方がすべての人のための贖いとなられたということです。具体的には、すべての人の罪の贖いとして、十字架に架かって死なれますが、三日目に復活する。そして、再臨され、世の終わりが来て神の国が実現することを言います。使徒信条を毎週の礼拝で告白しますが、その内容そのものです。
福音書及びローマ書に記される啓示は、イエス様こそが神の奥義の成就であることを強
調するものでした。しかし、このヨハネの黙示録は、もう一歩進んで、世の終わりの出来事
を啓示しているのです。
黙示録1章3節の最後には、次のように記されています。
時が迫っているからである。
2.迫害下の教会
第二次世界大戦下で、我が国ではホーリネス系の教会が弾圧迫害されました。1942年6
月26日、140名の牧師が検挙、投獄されました。仙台青葉荘教会の中島代作牧師も検挙さ
れ禁固刑が言い渡されました。途中で保釈されましたが、牧師職が剥奪され、教会の礼拝は
じめ集会は禁じられました。戦争が終わるまでに6名の牧師が、刑務所および拘置所で警
察の暴力のために殉教しました。
徳川政権下での厳しい迫害、仙台、伊達藩下での迫害
ヨハネの黙示録の時代は、ローマ帝国の皇帝こそが神であり、帝国内は偶像の神々が祭
られていました。その中で、教会は皇帝礼拝をせず、ただイエス・キリストの父なる神のみ
を神として信じていたのです。帝国から憎まれ、迫害を受けたのです。迫害に耐え、信仰を
堅く守っていたのです。
3.教会の信仰
今あるわたしたち教会は、この世にあって神の国を待ちのぞむ教会であります。
神の国、天国ですね。イエス様を信じる者に与えられる永遠のいのち、まことの救いで
す。わたしたちは、イエス様を信じるゆえに、救われていますが、神の国はまだ実現して
いないのですね。イエス様の再臨とは、世の終わり、終末ですが、その時を待ち望むので
す。アブラハムの信仰です。「天の故郷を熱望していたのです」
(ヘブライ人11章16節)とあります。
その終わりの時こそ、神の国の実現です。聖書はそのことを次のように記しています。
黙示録21章ですね。新しい天と地が現れるのです。そこには、代々のクリスチャンの信
仰の喜びと祝福があります。3節
そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間に
あって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、
彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆き
も労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
わたしたちは、この神の国の実現を信じ、待ち望んでいるのです。
その時がいつ来るのか、分かりません。子も知らないとイエス様は言われました。
いつ来てもいいように、信仰をしっかり持っていることが必要です。
黙示録が書かれた時代 ローマ帝国の時代。初代教会は、迫害の中にあった。まさに時
が迫っている。イエス様の再臨が近い。その生きるか、死ぬかという政治的、社会的な動
乱の中で、教会は信仰の火を消すことなく、イエス様の再臨を待ちのぞむのです。
4.エフェソ教会
さて、本日の聖書ですが、初代教会のうちの七つの教会に対して巻物に書いて書き送れ
との声がありました。巻物を書き送るとは、手紙を書き送るのですね。1章11節にある
七つの教会です。
その第一、エフェソの教会です。エフェソの教会はパウロが伝道して建てあげた教会で
す。使徒言行録19章8節にはパウロが3ヶ月ほどエフェソに滞在したとあります。それ
から二度目にエフェソに行き、そこで「三年間」滞在しました。パウロはエフェソ教会につ
いて「大きな門が開かれている」(一コリ16章9節)というほど重視し、パウロ及びアポ
ロなどの伝道者たちの熱心な働き(使徒20:17~31)によって、教会は発展しまし
た。
そのエフェソの教会ですが、黙示録はエフェソの教会に対して手紙を送っています。
「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢でき
ず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知って
いる。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。
しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だか
ら、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改め
なければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてし
まおう。」
ここで、エフェソ教会の性格が言い表されています。
①教理に強い教会、正統的な教会
真理志向の教会ということができるでしょう。神学的な思考ができる。議論して、間違い
を糺すことができる。現代のキリスト教を例えれば、統一協会、エホバの証人、モルモン
教会のような、間違った福音の捉え方に敏感に反応し、正統なキリスト教の信仰を主張
し、それを公に言い表す。よく伝道し、教会が大きくなる。労苦と忍耐に秀でている。訓
練された教会であり、熱心な奉仕者がたくさんおり、頼もしい教会といえるでしょう。そ
のために、迫害下であっても忍耐し、労苦して教会形成に励んでいる教会なのです。
そのことを評価し、賞賛しています。しかし、注意すべきこともあります。
②愛について 初めの愛から離れた教会
エフェソの教会の行い、労苦と忍耐について、賞賛していても、苦言がありました。それ
は4節「あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出
し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。」という言葉です。
厳しいですね。初めのころの愛から離れてしまった。愛がまったくないとは言っていま
せん。初めの愛から離れたというのです。
「初め」と訳されているギリシア語は「プロートス」πρωτοςという形容詞です。
この言葉は、「はじめの、最初の」という時間的な意味と同時に「第一の、主要な、何より
も優先すべきこととしての」という質的な意味もあります。
教理的、知的、正統さを優先するあまり、もっとも大切な愛が消えているというのです。
教会にとって、愛がないとは致命的です。キリスト教は愛の宗教です。コリント第一13章
ですね。クリスチャンなのに愛のない人と言われることほど苦しく、辛いことはありませ
ん。冷血漢であるのはなく、悔い改めなさいといわれるのです。イエス様がわたしたちの心
の底まで見抜いておられるのです。はじめの信仰、はじめの愛に立ち返りなさいと言われ
るのです。
わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。そう、褒められても、愛から離れたと言われる方がつらく、苦しいですね。
行いではなく、愛によって働く信仰が大切なのです。ガラテヤ5章6節。
イエス様と教会との関係を結婚にたとえることができます。教会は花婿であるイエス様にとって花嫁と譬えます。イエス様はご自身の血をもって、わたしたちすべての教会を贖われたのです。愛を注がれたのです。教会は花嫁であって、花婿なるイエス様を待ちのぞむのです。
宗教改革の時代、カルヴァン派は自分たちの神学と異なる人たち、その人たちもキリスト者ですが、異端として迫害をした歴史があります。アルメニウス、メソジスト教会の神学的な指導者でした。あげくの果ては、宗教戦争です。プロテスタントとカトリック、プロテスタント同士でも互いに戦争をし、殺し合ったのです。
冷たい信仰、冷徹な信仰、間違いを指摘し、自己の優越を誇る。そのような教会ではなく、愛を優先する教会。相手が間違っていても寛容であり、相手が変わっていくことを祈って待つ。福音、ここには、キリスト教の「いのち」であり「本質」ともいうべき「愛」と「信仰」について、神のみ言葉に新しくされていきましょう。
正しいことを言っていても、言い方がきつい人、傷つける言葉、柔らかい言葉、優しい言葉、怒りの言葉、Ⅰコリント13章1節しばらくお読みします。愛がなければすべてがむなしいのです。
祈り
愛を優先する教会となるように、わたしたちの目を開いてください。悔い改め、方向転換することができますように、聖霊をお注ぎください。