2023年9月10日 聖霊降臨節第16主日礼拝

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聖 書  エゼキエル書47章1~12節

説 教  後期高齢者に与えられた使命

 心理学者ウィリアム・ジェームズは「人生の四季」という本で、人生には四つの誕生がある言っています。

第一の誕生は、赤子として生まれる。個体としての誕生ですね。小さないのちの誕生です。

第二の誕生は、思春期、青年期を通って生まれる自我の誕生。自意識とか言います。若者特有の自己理解です。

第三の誕生は、社会的な誕生です。就職して、社会人となる。壮年となり、職場の責任が重くなる。家庭を築いていく。社会的な誕生とジェームズは言います。

第四の誕生は、自由人としての自我の誕生を言うのです。壮年時代に負わされた拘束、責任、義務から解放されて、一個の人間として自由に生活できる状態を言うそうです。

 今までは、職場でも家庭でも、義務と責任である面では、自己を拘束していたわけですね。その束縛が解かれる。ただ、老いという代償を払わなければなりませんが・・・

 しかし、自己決定による生き方を選択できるのです。自分が人生の主役となり、すべてにおいて決定権を持つことが可能である。

それが第四の誕生であると言うのです。そして、この第四の誕生は第二の青年期と第三の壮年期である社会的誕生の中で、備えられるというのです。

 早い話が、積み重ねということでしょうね。「ローマは一日にして成らず」という諺があります。生きたようにしか、死ねないともいいます。死を迎えるにしても、いかに生きてきたかが、死に方に表れるのですね。

 同じような話ですが、聖路加病院の名誉院長であった日野原重明先生の記事がありました。インタビュー記事です。保存していましたが、改めて読み返し、なるほどと思ったことです。そこに、こう書いてあり全く同感しました。皆さんも同感されると思います。

「二十歳まで、人間は受けてばかりです。親から養育を受ける。学校で授業を受ける。与えられた環境で子供は成長します。第二の人生は、社会人になって自立してからです。65歳になってからは、もう10年先を考える、潜伏期のような待つ時間を持つ。そして、いよいよ、75歳からが最もやりがいのある自己実現の、人生が始まるのだと思います。」

 75歳からが自己実現の時だと言うのですね。後期高齢者です。しかし、「もう75歳だ」と言ってはならない。「まだ、75歳だ」という気概ですよね。「もう50歳」、「もう60歳」ではない。まだまだ、人生はこれからだということです。

 本日は、敬老の日礼拝です。コロナ前は、礼拝後に敬老会をしました。愛さんの時を持ちました。残念ながら、コロナ感染予防のために今年も中止です。しかし、週報にありますように、新敬老のかたに、お祝いの品を贈ります。新敬老は75歳です。

どうですか? 「これから、自分の人生が始まる」

自ら何かを積極的なことを選択し、自己決定できる。その時が本当の自由であり、生きる喜びであります。そして、最大の喜び、幸せは、神と共に歩み、神のもとにあって自分を委ねるという自己決定をする時ではないかと思うのです。

神様はアブラハムに現れられ、わたしが示す地に行きなさいと言われました。アブラハムは神の言葉に従って旅だったのです。75歳でした。創世記12章1~3節

 本日の聖書、エゼキエル書47章1~12節です。このところを読むと、神の霊の満ちる

段階が記されています。1節をお読みします。

彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の 南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。

 

 はじめは湧き水ですね。泉のように湧いてくる水です。その水が3節には、

その人は、手に測り縄を持って東の方に出て行き、一千アンマを測り、わたしに水の中を渡らせると、水はくるぶしまであった。

1千アンマは、450メートルくらいの距離です。

 4節には水は膝に達した。さらに1千アンマ行くと、水は腰に達します。5節には「更に彼が一千アンマを測ると、もはや渡ることのできない川になり、水は増えて、泳がなければ渡ることのできない川になった」のであります。

 そして8節以降「彼はわたしに言った。これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、すなわち汚れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる。川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。」

 

 8節の「アラバに下り、海、すなわち汚れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる」とあります。アラバの海は死海を指します。塩の海です。生き物がいない。まさに死の海です。その海に神殿から流れる水が入ると死んだ海が生きるのです。「この水の流れる所では」水がきれいになり、生きるのです。

 死の海が活ける川に流れにより生きた海に変わるのです。そこに、復活のいのちがあります。この水こそ、イエス様が与えられる活ける水であります。

わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。(ヨハネ7章38節)

 ヨハネの黙示録22章1節からでは、

御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。

 わたしたちは、イエス様の御血潮の贖いによって、救われ、癒されています。神の国の恵み、永遠のいのちに与っている。これは事実であり、わたしたちの信仰です。

そうです。わたしたちは癒されている。聖霊の活ける水をいただいている。そして、わたしたちが活ける水として社会をきよめる使命を与えられている。福音を宣べ伝えることによって。

 「いや、もうわたしは高齢者だから福音を宣べ伝えるような元気はありません。」そう言われる方がおられるかもしれません。しかし、高齢者になっても、使命がある。これは本日の説教題です。どんな使命か。この世の最上のわざが与えられている。

この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、
働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうなときに希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架をになう。
若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、ねたまず、
人のために働くよりも、けんきょに人の世話になり、
弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること。
老いの重荷は神の賜物。
古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために。
おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事。
こうして何もできなくなれば、それをけんそんに承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ。
手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と。

(ヘルマン・ホイヴェルスの著書『人生の秋』の「年をとるすべ」から)

 この世の最上のわざ。これが祈りです。高齢者だけではない。すべての世代の人たちにとっての最上のわざです。その祈りによって世が変わる。きれいになる。死んだ海が生き返る。世界が変わる。希望であり信仰です。祈る人たちは、清められた人たちです。

 これが、神様が与えられる最上のわざ、使命です。感謝して、その働きを全うしましょう。