聖 書 ローマの信徒への手紙15章22~33節説 教 平和の源である神
2020年9月6日にローマの信徒への手紙の連続講解説教を始めました。本日で61回となります。さて、本日の聖書を通して、三つの地名を挙げてスリーポイントといたします。
1.イスパニア
キリストの十字架の贖いの福音を宣べ伝えること。この信仰がパウロを伝道旅行に駆り立てていきます。ご存じのように、パウロはキリスト教の迫害者でした。教会を弾圧し、クリスチャンを迫害しようとするところで、幻のうちに、甦られたイエス様の御声を聴き、回心し、洗礼を受けて、キリスト者となったのです。それから、命をかけて福音を宣べ伝え、各地に教会を建ててきたのです。まさに、今まで迫害してきた教えのために、今度はいのちをかけてその教えを広めようとしたのです。キリストに献身し、伝道者となったのです。
その働きは、15章19節から通りです。
また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。このようにキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に建てたりしないためです。
手付かずのところに、福音を宣べ伝える。キリスト者がいないところで伝道する。教会がない土地で教会を建てる。いわゆる開拓伝道ですね。
パウロの福音宣教の働きは使徒言行録13章から28章の最後にいたるまで記されています。福音を宣べ伝えるところで信仰者が起こされ、そこから教会が出来上がりました。エフェソ、コロサイ、ガラテヤ、そしてフィリピ、コリント、テサロニケと伝道旅行を行い、教会を建ててきたのです。
いま、長い年月を伝道旅行に携わり、さらに経験豊富な伝道者となったパウロは、ローマの教会に手紙を送り、この15章の終わりに、今度はスペインへの伝道を志したのです。
22~24節ですね。
こういうわけで、あなたがたのところに何度も行こうと思いながら、妨げられてきました。しかし今は、もうこの地方に働く場所がなく、その上、何年も前からあなたがたのところに行きたいと切望していたので、イスパニアに行くとき、訪ねたいと思います。途中であなたがたに会い、まず、しばらくの間でも、あなたがたと共にいる喜びを味わってから、イスパニアへ向けて送り出してもらいたいのです。
イスパニアとは、スペインのことです。当時の世界の地の果てまでも伝道する。開拓伝道です。そこにパウロの誇り、矜持がありました。かつてのキリスト教の迫害者が生けるキリストに出遭い、回心した。迫害者がこんどは、その教会のために生きる。迫害される側となるのです。キリストのために生きるようになったのです。
2.ローマ
先ほど22節をお読みしましたが、ここには地名は記されていませんが、ローマがあります。もう一度、22節から24節を読みましょう。
こういうわけで、あなたがたのところに何度も行こうと思いながら、妨げられてきました。しかし今は、もうこの地方に働く場所がなく、その上、何年も前からあなたがたのところに行きたいと切望していたので、イスパニアに行くとき、訪ねたいと思います。途中であなたがたに会い、まず、しばらくの間でも、あなたがたと共にいる喜びを味わってから、イスパニアへ向けて送り出してもらいたいのです。
ここには「あなたがた」という言葉が繰り返されています。22節から29節までなら「あなたがた」は6度も出ているのです。「あなたがた」とは、だれでしょうか?
ローマの教会の信徒たちです。実はローマ書1章8節以下の手紙の挨拶に、この「あなたがた」が何度も出てきます。とくに9節以下ですね。
わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。
まだ見ぬ教会、行ったことがない教会です。「すべての道はローマに通ず」と言われるローマです。訪問したいと1章に述べていますが、この手紙の終わりにかけて、15章になり、再度、そのことを述べているのです。
3.エルサレム
この手紙を書いているパウロは、いまどこにいるのでしょうか。どこで書いているのでしょうか。コリントですね。コリントで福音を宣べ伝えて教会を建てあげました。そこでローマ経由して、スペインへの伝道旅行の計画を持っているというのです。
しかし、その前にエルサレムに帰省することも著わしています。25節
しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。
それはパウロが伝道して生み出したマケドニアとアカイア州の教会の人たちがエルサレム教会に募金をしたことによります。献金を募り、それなりの献金が集まったので、パウロはエルサレムに献金を持って行こうとしたのです。献金については、コリント一18章1節、コリント二8章、9章に記されています。
使徒言行録21章には、エルサレムに立ち寄ったパウロは、神殿の境内で殺されそうになりますが、ローマの千人隊長と兵士たちにより助け出されます。しかし、捕縛され、裁判にかけられ、ローマに移送されるのです。この経緯は使徒言行録の最後の章である28章まで継続してルカにより記されるのです。
使徒言行録28章では、ローマにおいて2年間自費で借りた家に住んでいたとあります。そこでは、ローマの信徒への手紙に書かれていたような、ローマ教会の信徒との交わりはできなかったのではないかと推察されます。
またパウロは、ローマからスペインに行く志を持っていましたが、スペインに行くこともなく、ローマ皇帝ネロの迫害の時に、殉教したと伝えられます。その時、ローマ教会の創立者とされるペトロも殉教しました。
4.平和の源である神
ローマの信徒への手紙15章でパウロは、エルサレムに行くことを書いています。そして、実際にエルサレムに行き、そこで捕縛され、裁判にあい、ローマへと移送されるのです。待っているのは、殉教です。(主なる神が褒めたたえられますように。)
それにもかかわらず、パウロは信仰の人として覚悟を持ちます。すべては神にゆだねているのです。「生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のもの」(ローマ14章8節)
「生きるとはキリスト、死ぬことは利益なのです」(フィリピ1章21節)
神の栄光が現れるため。死ぬことも益なのです。
そのように、福音のために死ぬことを厭わない。むしろ、キリストのために死ぬことは栄光。喜びなのです。神の国。永遠のいのちが備えられているからです。
この15章において、「源である神」と3度記しています。
5節「忍耐と慰めの源である神」
13節「希望の源である神」
33節「平和の源である神」
神はすべてを統べ治められるお方です。その神とともにあること。神がともにおられること。生きることは、その神の栄光を現すために、自分の生がある。そのために生き、そのために死ぬ。そのためとは、ひとりごイエス・キリストを十字架につけるほどに、わたしたちを愛してくださる父なる神の愛と恵みに生きる。
これがパウロの信仰です。そのように生き、そのように死んだのです。神に栄光。祈ります。