聖 書 ローマの信徒への手紙15章14~21節
説 教 神のみわざが現れる時
本日は、ローマの信徒への手紙15章14~21節より「神のみわざが現れる時」と題して説教いたします。以下の3ポイントで説教します。
1.キリストのしもべ
2.栄光と誇り
3.神のみわざが現れる時
16節、17節をお読みします。
異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません。そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。
この聖書の箇所では、パウロの伝道生涯のパウロ自身のまとめ、総括が込められていると思います。パウロの信仰、生き方、伝道姿勢のすべてがここにあります。
異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。
仕える者とは-ギリシャ語ではレイトゥールギアという言葉が使われています。このレイトゥールギアは一般に奉仕とか仕えるという意味であります。しもべとして仕えるということです。それは、単に奴隷のように仕えることではなく、自由意志で、自発的に仕えるという意味であります。ボランティアですね。自ら進んで奴隷になる人はいません。しかし、キリストにあるとき、自由意志で奴隷になることをいうのです。
祈祷会では6月より民数記を学びつつ、出席者全員で祈りに入ります。先週7月12日の民数記12章では、次のような言葉がありました。12章7節「わたしのしもべモーセ」と。
この章は、指導者としてのライバル争いが記されています。神が選ばれた指導者モーセがこともあろうにアロンとミリアムという兄姉により名指しで非難されるのです。その時、モーセが弁明するより先に、神が即座に三人の間に介入され、モーセこそが「わたしのしもべ」だとモーセを守られるのです。「神のしもべ」ですね。
奴隷ですが、ほかでもない神のしもべ、神に仕える奴隷です。天地創造の神のしもべとされることの光栄です。
パウロは、自分のことを「キリスト・イエスのしもべ」と言っています。光栄ある身分です。職位です。(ローマ書1:1、フィリピ1:1)
次にこのレイトゥールギアは祭司として儀式を行うこと、祈りを捧げて仕えるという意味があります。執り成しですね。祭司は執り成しをする役目を与えられているのです。
まさに、16節後半で
神の福音のために祭司の役を務めている のですとあります。
パウロは神のしもべとして、異邦人のためにとりなし、祭司の務めを忠実に果たしたのです。それがパウロの伝道生涯でした。
わたしは、いのちの電話の相談員を数年間したことがあります。相談員となるために2年間研修を受けなければなりません。その後も継続研修を毎月するのです。そして、相談員として電話を受けます。これも長時間拘束されて、困った人の相談を聴くのです。研修費用は自分持ちです。時に泊り込みの研修もありますが、これも費用は個人負担です。お金と時間、これを献げるのです。
人生で苦しんでいる人の相談、精神的な孤独者、心の病を持っている人、ときに酔っ払い、乱暴な口を利く人、横暴な人、性的な電話をかけてくる人。いろんな人がいます。
プロテスタントの宗教原理 万人祭司です。すべてのキリスト者は祭司の務めを与えられているのです。
ローマ書のひとつのテーマは信仰によって義とされるということでした。行いでもない、わざ、何かの働きをしたから救いに導かれるということではないのです。ただ、神を信じ、キリストの十字架はわがためと信じる時に義とされるということでした。
それと裏返しで、もう一つのテーマは、ユダヤ人と異邦人というテーマであります。ユダヤ人あるいは、ユダヤ主義は律法主義でもあります。律法を守り、割礼を受け、律法の規定を忠実に守らなければ義とされない。すなわち、救われないということです。そうではない、神はすべての人が救われて、神の義を受けるためにキリストの十字架があるのだ。そこには、律法も割礼も必要がないのだ。これがローマ書です。
2.栄光と誇り
異邦人のために務めてきたことがパウロの誇りとなっています。使徒言行録のエルサレム会議で、ペトロはユダヤ人に、パウロは異邦人に福音を伝えることが取り決められました。それ以来、一貫してパウロは異邦人の伝道者として働いてきたのです。
18~19節
キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。
この言葉にパウロの誇り、矜持ですね。プライドがあります。わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。
パウロ自身が自分の伝道者生涯を振り返り、そのように自己評価しているのです。それがパウロの自意識であります。パウロの伝道者としての働きに神のみわざが現わされている。そう、パウロは自認し、神に感謝しているのです。まさに、パウロの生涯は、伝道者として苦難を経験しましたが、それ以上に神の恵みと祝福を受けたのです。
Ⅱコリント6章1~10節
お読みしませんが、このⅡコリント6章は、伝道者としての経験した苦難がここには記されています。死に直面したこともあります。まさしく、イエス様の福音を宣べ伝えるために、生涯をかけたのです。
わたしたちもまたそのような自己評価を時にする必要があります。わたしたちの信仰はどうだろうか? キリストがわたしたちを通して働かれた。そのような経験を持つ人は幸いです。
3.神のみわざが現れる時
パウロとは比較する必要はありません。パウロの足もとにも及びませんが、神の恵みにより、わたしのようなものを通しても救われる方が起こされたことを感謝します。
先日、岩手から電話がありました。岩手の教会に仕えた時の教会の信徒がなくなったとの連絡でした。しばらく想い出にふけていました。その教会に洗礼を受けられた夫婦がいました。小学校の校長をされていました。奥さんが先に教会に来られてしばらくして洗礼を受けられました。夫は夕拝に奥さんと一緒に出席されました。教会では、朝の礼拝と夜の夕拝を休むことなく行っていました。そのご夫妻は、ほとんど休むことなく夕拝に出られました。夕拝出席者は4,5名です。それでも、休まず来られました。洗礼を勧めましたが、断られました。
実は、その方は、岩手の地方の町では旧家の出であるとのことでした。長男でしたので、家と墓を継ぐ。寺の檀家総代であり、神社の氏子総代を代々している家とのことでした。それが洗礼を受けて、クリスチャンになることを躊躇わせていることでした。
しかし、あることがきっかけとなり、洗礼を受ける決断をされました。その詳細はここでは割愛しますが、奥さんが洗礼を受けてから5年目に洗礼を受けたのです。その間も夕拝にはずっと出席されていました。夕拝だけでなく礼拝、祈祷会と休まず、ほとんど出席されるようになったのです。今でも、そのことは変わりありません。
実は、洗礼を受ける時にこういう決心をされたのですね。家は弟に継いでもらう。墓も弟に譲る。家とその財産は一切放棄したのです。そして、教会の墓に入ることを決断されたのです。
見事な決心だなあと思いました。クリスチャンになる時に、そして、なってからも、このように明快な信仰、潔さを持つことは少ないと思います。
仙台青葉荘教会でも、そのような決断をされて信仰の世界に入った方々はいらっしゃるでしょう。今日、この礼拝に出席されている皆さん全員がそのようであれとは申しません。教会には確信の強い人も弱い人もいるからです。
大事なことは神の栄光のためにということだと思います。
祈ります。