聖霊降臨節第七主日礼拝

2023年7月9日 聖霊降臨節第七主日礼拝

聖 書  ローマの信徒への手紙15章1~13節

説 教  希望の源である神

1.キリスト教は特別視される

 日曜日に礼拝に出席するために教会に来る。その意味と目的は何でしょう。

そのような質問を近所の人、友人、家族から訊かれると、どう答えますか?

答えはいろいろあろうかと思います。

「わたしはクリスチャンだから教会に行くのは当然でしょう。」

これが一番多い答えかなと思います。

「何となく・・・」

そういう答えもあるかもしれません。それでは、余りインパクトはありませんね。

日本の文化は宗教には寛容ですが、仏教や神道が一般的ですから、キリスト教というと特別視されます。普通と違うのです。ですから、「何故日曜日に教会なのか、一週間仕事をして日曜日の休みの日にも出かける。しかも、行楽でもなく、教会に・・・?」

 答えはいろいろあると思います。100人いて、みな同じということではないでしょう。

それに対する明確な答えを持ち、それをいつも確認し、確信している信仰と覚悟が必要です。それがわたしたちの自意識であり、ライフスタイルなのです。

栃木県の教会で牧師をしていた時、クリスマスに洗礼を受けられた若いご夫妻がおられました。毎週、県南の佐野市から車で来られています。佐野は足利の隣の町です。佐野や足利にも教会があるのです。足尾鉱山事件で有名な田中正造さんが礼拝に通っていた教会があります。佐野教会です。

この若いご夫妻は、佐野から約90キロの道のりの西那須野教会まで車でいらっしゃるのです。仙台から90キロというと、北は一関、南は福島を越して、その先あたりでしょうか。ある面、命がけです。熱心さといってもいいかもしれません。しかし、言葉では説明できないものがあります。衷心より動かしているものがあるのです。

(仙台青葉荘教会の教会員のS姉は学生時代2年間、毎日山形までバス通学されていました。3年次から2年間、卒業するまで山形に住居を移されました。)

教会に来ることは、家族を巻き込みます。夫婦を巻き込みます。友人、知人、ご近所を巻き込んでいく。巻き込んで一緒に行くか、拒否するか、傍観者となるか。

 いまは、コロナのためもあって、近くても来ることができない。考えさせられます。

教会に来る源は、教会の喜びだと信じます。教会の喜びとは何か? 「主を喜び祝うことはあなた方の力である」の聖句を年間聖句としました。教会を愛することでしょうか。喜びがあるから教会につらなる。

聖書を読みます。1節から

 わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。 おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。  キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。

 

 教会には強い人と弱い人がいる。これは14章から続いた教会の問題です。

キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。

キリスト者とは、キリストに従う者のことです。キリストの弟子ですね。それは自分の満足よりも師であるキリストの栄光を願うのです。イエス様が十字架で示された謙遜の奥義をしもべであり弟子であるキリスト者は身に着けるべきなのです。イエス様はそのお手本を十字架で示されたのです。

強い人はまずその強さを謙遜さで現すべきです。本当は、弱さこそがキリスト教の本質であるのです。なぜなら、弱いときこそ強いからです。神は弱さの中に完全に発揮されるのです。Ⅱコリント12章9~10節。

 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

2.忍耐と慰めの源である神

 4節から6節には次のように記されます。

 かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。

 ここでは忍耐と慰めを学んで希望を持ち続ける。そこに忍耐と慰めの源である神がともにおられるからです。

 3.希望の源である神

 神を信じることはどういうことなのか? これはとても大切なことです。信仰するとすべての問題ですね、悩み・苦しみ・病気、困難、人生に直面するが諸問題が解決するのかというと必ずしもそうではないのです。むしろ、解決するどころか増大することもあります。迫害がある。疎外される。地域、隣近所からいじめを受けることもある。いのちがけなのです。祈っても、祈っても解決しない。神様の約束は嘘ではないか。そう疑問に思うこともあります。利益どころか、損をすることもあります。

 救いとは何? 神の助けとは何か? 大多数は悩み、苦しみを持ちながら教会生活を送っておられるのが実情だと思います。そのような疑問を持ちながら、なお、神を信じ、祈り、賛美し、教会につながっていく。これが大切です。

 実は、そこに忍耐と慰めの源である神、そして希望の源である神がおられるのです。

12,13節

また、イザヤはこう言っています。「エッサイの根から芽が現れ、異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。」 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。

 イザヤの預言は、イザヤ書11章10節からの引用です。救い主誕生の預言です。イエス様ですね。わたしたちは聖書を通して神から与えられる希望と忍耐を知るのです。ここでは、異邦人伝道のことを言っています。

聖書は、神の道はいつも安易な道ではないが、究極的には人生を価値のあるものとする唯一の道であると宣言しているのです。そこに神に従う者の恵みがあります。神はそこに誠実に対応されるのです。

 最期に、栃木の教会のことを先ほど申しましたが、Sさんが礼拝に来られていました。Sさんは幼稚園の先生をされていましたが、重い病気になります。22歳の時です。ギランバレー症候群と上衣腫という脳の病気の合併です。ギランバレーは、かぜのウイルスが脊髄に入り、全身麻痺や脳障害を引き起こすと言われます。上衣腫は、脊髄の真ん中にできる腫瘍で再発を伴う進行性の病気です。腫瘍で神経が圧迫され全身まひ、機能障害、脳障害、最悪は死と知らされ、ショックで絶望です。また、子宮の異常も見つかり、結婚したとしても子どもが産める状態ではないと医師から宣告を受けます。踏んだり蹴ったりです。

何度か入院、手術をされましたが、下半身が麻痺で動かすことができなくなり、いまは車椅子の生活をされています。

 このSさんは那須の山奥から車で来られていました。ほとんど福島の県境の白河に近いところから来られるのです。距離的には40キロです。Sさん、車椅子ですが、自分で自動者を運転されるのです。車椅子の人用の改造自動車です。

 忍耐と慰めの源である神を信じ、気丈に礼拝に出席されています。車椅子ですが、結婚されています。ご主人は、有名な画家です。ご主人は画家で三越本店でも個展を開催されています。

 わたしは何度かご自宅に伺いました。とても素敵なご夫妻です。Sさんは神により頼み、希望を持ち続けられているのです。まさに4節から6節にあるように、忍耐と慰めを学んで希望を持ち続ける。そこに忍耐と慰めの源である神がともにおられるからです。そして、希望の源である神がともにおられるのですね。その信仰です。救いの保証。永遠のいのちの恵みに預かる信仰です。

その約束が確かなものとされるのです。そのご家庭は、喜びと感謝の家庭です。教会は希望の源である神を信じて、祈りと信仰を献げられてきた信仰者によって営々と営まれてきました。神は、そのような信仰者、証し人を今も後も世々変わることなく起こされるでしょう。 祈ります