聖 書 出エジプト記16章1~5節、12~14節
説 教 天からパンが降ってきた
前回、5月21日の礼拝説教は、「海が割れる ― 何を見ているのか」でした。聖書箇所は、出エジプト記14章でした。まさに海が割れて、渇いた地面をイスラエルの人々は向こう岸に渡るのですが、あとを追ってきたエジプト軍は雲の柱、火の柱で遮られ渉ることができません。火の柱が消えて、渡ろうとするのですが、壁となっていた海の水が元に返りエジプト軍は海に沈んでしまったのです。
※ 2と3
15章は、この出来事を神の奇跡として御名を賛美し、偉大な神の御業を褒めたたえています。
しかし、これで万事がめでたし、めでたしで終結したわけではありません。まだまだ先は長いのです。悦ばしいできごとは、いつまでも続かないのです。普段の生活に戻ります。日常です。いつもいつも奇蹟があるわけではないのです。熱が冷めると、冷静になると現実があります。
現実とは何か? 退屈な日々、決まり切った毎日です。そして生活に欠けがあることに気づきます。何か?
食べ物がないのです。水がない。
東日本大震災を経験した被災者と地域の住民がまず経験したこと。それは被災者の身の回りの世話をすることでした。安全な住まい。温かな施設。仮設住宅。食べ物、飲む水、飲料水です。衣食住。関連して、東日本全体に大きな影響がありました。コンビニやスーパーで食べ物、飲料水がなくなったことです。電気も使えなくなりました。計画停電ですね。そして、ガソリン燃料不足です。ガソリンを求めて、スタンドに行っても渋滞し行列を作って何時間も待っていなければならなくなりました。
エジプトを脱出したイスラエルの人々は神様の奇跡があったとしても、荒れ野に40年間もとどまり続けなければなりませんでした。そこには、食べ物も水もありません。畑を耕し収穫するなどできません。荒れ野です。川もなく、土壌はからからに乾燥しています。そんなところに40年間、まさに抛り出されたのも同然です。
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イスラエルの人々は、そんな現実を見て呟きます。3節ですね。
イスラエルの人々は彼らに言った。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを 腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」
日常に戻ると、前に経験した大きな喜び、感謝を忘れてしまうことがあります。いま、そこにある危機、苦しみ、痛み、辛さが募り、不安になり、死んでしまうのではないか、このまま滅んでしまうのではないかと恐れるのです。そこにはつい先ほど経験した神様の恵み、驚くべき奇跡が生きていません。どこかへ行って消えてしまうのです。
この呟きは前にも出ました。エジプトを発ったイスラエルの民にエジプト軍が追手をかけるのです。前に紅海(葦の海)、後ろにエジプト軍を見て、民は呟きますね。14章11節です。
「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出し たのですか。我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませ んか。」
この後、神様は海を割る奇跡を行われたのですね。
辛いこと、苦しいことがあると、前に経験した大きな恵み、神様の奇跡を忘れてしまうのですね。そうではなくて、神が与えてくださった恵みと祝福を想い起しましょう。
聖歌がありますね。 聖歌 604番 『のぞみも消えゆくまでに』 です。
望みも消え行くまでに 世の嵐に悩むとき 数えてみよ主の恵み
汝 が心は安きを得ん 数えよ主の恵み 数えよ主の恵み 数えよ一
…「数えてみよ、主の恵み」
これが人間です。そういう時、非難するのではなく、民を落ち着かせ、励ます指導者が必要なのです。その指導者こそ、神が選ばれたモーセとアロンの兄弟なのです。
4節
主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。」
神はモーセとアロンを選び、出エジプトにいたるまで、多くの奇跡としるしをこの二人を通して現わされました。いま、パンと水に対しても生活のいのちに対しても保証されるのです。荒れ野において、常識では考えられないことを、その常識を超えて行われるのです。それこそが神の奇跡、驚くべきみわざなのです。
8節
「主は夕暮れに、あなたたちに肉を与えて食べさせ、朝にパンを与えて満腹にさせられる。主は、あなたたちが主に向かって述べた不平 を、聞かれたからだ。」
そして13~15節
夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。
この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これこ そ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。
肉とマナを降らせられる。最初にうずらが飛んできます。鳥の肉ですね。そして、パンです。ここではマナという名前です。
30節
イスラエルの家では、それをマナと名付けた。それは、コエンドロの種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味がした。
マナとは、この天から降ってきたパンの名前です。神は自然界を超えて、イスラエルを養われるのです。そこに神の配慮があります。400年の間、エジプトで捕らわれの身であったイスラエルを解放された神は、約束の地に導くために、人の想像もできない奇跡のみわざを現わされるのです。これが天からのパンです。
35節
イスラエルの人々は、人の住んでいる土地に着くまで四十年にわたってこのマナを食べた。すなわち、カナン地方の境に到着するまで彼らはこのマナを食べた。
マナは、神のみことばです。人の手で作られた食物でなく天から与えられたものです。毎日与えられ、全ての人に同じ分だけ備えられるものです。朝、集めないと溶けてなくなる。
食べた者には一日分の命が与えられた。いのちの保証がそこにあります。しかし、神のご計画はそれで終わることはありません。イエス様につながるのです。
イエス様は言われます。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は,その日だけで十分である」。
マタイによる福音書 6:33、34節
まさに、その信仰です。
最後に、ヨハネによる福音書6章48節をお読みします。
わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。