聖 書 ローマの信徒への手紙14章1~6節
説 教 強い人、弱い人
1.強い人、弱い人
人間には大きく分けると二種類の人がいるようです。一つは強い人、一つは弱い人です。
強い人は力がある。どんな力か。腕力がある。権力、権勢がある人。イメージは政治的な強さ、パワーですね。現代の国際社会では、強さは軍事力、経済力が強大であると、強い国となります。逆に軍事力、経済力が小さいと、弱小国。教会も教勢、教会員の数、礼拝出席者の数、献金等による歳入歳出、つまり経常収入の多寡、多い少ないが意識されます。
(教会― 弱小教会とも言われます。わたしは今年度いっぱいで辞任しますが、今度移るとすれば、地方の弱小教会とされるところに行きたいと思っています。)
人間を強い、弱いと単純に色分けするのは、21世紀に生きるわたしたちの民主社会、福祉社会でいえば、評価されるものではないと思います。なじまないのです。
先週、宮城県のニュースで仙台地方裁判所での地裁で訴えられました。障害があるゆえに、不妊治療を強制させられた。結婚もできない、子孫を残せない。人間の基本的人権です。病気の人たちは弱い。健康の人たちは強い。こういう考えは、聖書信仰の観点からは、なじめません。
学歴社会から言えば、偏差値の高校、大学に進めば、強い。頭がよければ、知能が高かれば、強い。社会に生き残れる。競争社会の勝者になれる。
そういう形で、強さ、弱さを分けることは、教会的には間違いだと言わざるをえません。
では、なぜローマの信徒への手紙14章で強い人、弱い人のことが記されているのか。 2000年前の教会のことです。実は、教会にもそのような二つの種類の人たちがいる。これが今日の聖書のテーマです。
本日の聖書は弱い人を受け入れなさい。そう、勧めています。これは勧告ですね。
1節に
信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。 何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。
「信仰の弱い人」ってどんな人なのでしょうか。信仰の弱い人というと、信仰の強い人が前提にあります。15章1節には
わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。
とあります。パウロは自分のことを強いと考えているのです。そして、ローマ教会の中に強い人たちの間に弱い人たちがいる。教会に強い人と弱い人のグループができている。
ちなみに、弱いには、貧しい、病気という意味があります。また、強いには、強さだけでなく、不屈の精神と忍耐をもって災難や試練に耐える、そういう強さの意味もあります。パウロは自分のことをそういう強さを持っていると認めているということです。
ここで「信仰」とは、原語では《ピスティス》となっています。《ピスティス》は普通「信仰」と訳される語です。「信仰によって義とされる(救われる)」というときの信仰ですね。イエス様を救い主でありキリストと告白する信仰です。そのことで信仰は完結しているのです。その意味で、信仰には強いとか弱いということはありません。ここでは、キリストに結ばれて生きるさいの、その生き方に対する確信を指します。ここで具体的には、キリストにある者は律法から解放されているという自由の確信を指しています。信仰とその後の生活の問題がここにあるのです。信仰とその生き方の問題。
信仰後の生活の問題です。ここから→メソジスト、ホーリネス教会のような実践を重んじる教会が生まれる所以です。
信仰生活の実践的問題が生じます。何を食べてもよいと信じている人、これが強い人です。それに対して、野菜だけを食べる人、これがここでいう弱い人ということになります。ヴェジタリアンですね。ヴェジタリアンの方がここの聖書を読むとどう思うでしょうか。
コリントの信徒への手紙にも同じ種類のことが言及されています。偶像に献げられた肉を食べてもいいかということです。また、肉の人、霊の人という言い方があります。そこにはミルクのような柔らかいものしか食べられず、固い食物は口にすることができない。それを「肉の人」と言っています。それに対して、固い食物を食べられる人を「霊の人」と言っているのです。コリント一3章1~3節 「霊の人」とはこの場合は、強い人のことでしょう。
対立ではない。受け入れなさいというのです。受け入れるとは仲間に加えるということです。排除しない。そこに教会が使命、いのちがあるのです。
信仰の内容に、信仰の強い、弱いとは関係ないことです。信仰の強いとは、たとえば迫害があっても信仰をしっかり守る。神にのみより頼み、他の世俗的な力、財力、地位には関心がない。そういう強さがあります。
信仰の弱い人とは、躓きやすい人。人のことばや態度で自分の信じていることが揺らいでしまうことを言います。信仰を持つにいたっても、この世の風習とか伝統を忠実に守っている人もいるのです。そのことが問題だということです。
わたしのことで恐縮ですが、子どものころ、家に仏壇があり、お供えがありました。それに神棚もありましたね。キリスト者でない限り、どこの家庭にも仏壇や神棚はあるでしょう。わたしの家もそうでした。祖父が寺のお坊さんをしていたのです。
祖母が毎朝毎夕、仏壇に座ってお経をあげていました。その仏壇に饅頭とか果物が供えられているのです。饅頭はよく、つまみ食いしたものです。死んだ人は食べないのにどうして、仏壇に供えるのかと訝ったものでした。
今は、仏壇に供えられたお菓子、饅頭も果物も食べようとは思いません。何か気持ち悪い。偶像に供えられ、偶像の息がかかっているような印象があり、食べたくありません。そういう姿勢が弱いというのですね。その点は、わたしは弱い人の中に入ります。
聖書には、強い人は、肉も魚も食べます。弱い人はそうではない。野菜しか食べられない。そういう人たちがいたのです。そのようなことで、信仰の内容まで判断できないと思うのですが、当時はそのことで教会が争いの種になっていたのですね。
信仰の弱い人との関連で、5節があります。
5節の「ある日を他の日よりも尊ぶ」いうのも同じです。ここでは律法の規定にある安息日を守ること、断食日、祝祭の日を指しています。とくに安息日は土曜日でした。この日は火を焚いてはいけないのです。一定の距離を歩いても行けません。今でも、イスラエルでは土曜日、レストランは閉まっていると聞いたことがあります。ユダヤ教徒のレストランでしょうが。
日本でも、大安吉日とか仏滅とか申します。結婚式は仏滅にはしません。「お日柄もよろしいようで」というのは、大安だからです。迷信や占いの類になってしまいます。日は平等でどれも神様が与えてくださる日であり、命なのです。
また、数字の4とか9を嫌い、迷信のように忌み嫌い、タブーにしている人もいます。
数字の4は、音は「死」につながりますし、9は「苦」を連想します。対照的に7はラッキーナンバーですし、8は末広がりを意味しますので喜ばれます。八ですね。車のナンバーで7とは777、888はよく見かけますが、444とか999は滅多に観ないですね。
キリスト教を伝統にしている国にも、13は忌み嫌われます。「13日の金曜日」と言ったりします。工事の時の設計で、13の階段は作らないといった具合です。イエス様が亡くなった日です。死というイメージであり、不吉な感じがするのでしょうね。しかし、イエス様が亡くなられたのは、わたしたちの罪からの解放のためであり、そこから本当の救い、永遠のいのちをもたらされるという喜ばしき日でもあります。不吉でも何でもないのです。
キリスト者はキリストに贖われたものであり、キリストだけに束縛されていて、そのほかのものからは自由である。律法から自由になった。何をしてもいい。しかし、弱い人のために躓かせないために自制する。セルフコントロールですね。それが強い人の意味です。
14章全体では、この後も食べ物について記しています。結論は、17節にあります。
神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。
(14章 17節)
これが結論です。
教会は弱い人のためにある。それが代々の教会の考え方です。イエス様も言われました。「わたしが来たのは、病人を招くためであって、健康な人には医者は必要としない」
イエス様は、徹頭徹尾、弱い人のために生きられました。弱い人の立場で生きられたのです。まさに、
神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。
イエス様を信じる人は救われているのです。そのことを信仰の核心として、日々の歩みが守られるように進みましょう。祈ります。
1 Τὸν δὲ ἀσθενοῦντα τῇ πίστει προσλαμβάνεσθε,
ἀσθενέω 弱い、無力な、貧しい、病気
προσλαμβάνω 受け入れる、仲間とする
μὴ εἰς διακρίσεις διαλογισμῶν.
διάκρισις 判断、識別
διαλογισμός 思考
15:1
Ὀφείλομεν δὲ ἡμεῖς οἱ δυνατοὶ τὰ ἀσθενήματα τῶν ἀδυνάτων
δυνατοὶ 有能、強力、強大、強い 、富と影響力において強大 、魂に強い
不屈の精神と忍耐をもって災難や試練に耐える
βαστάζειν, καὶ μὴ ἑαυτοῖς ἀρέσκειν.