聖 書 出エジプト記14章19~31節
説 教 海が割れる ― 何を見ているか
聖書は14章19節から31節までが読まれましたが、14章全体から説教をいたします。本日の箇所は、紅海渡渉と言われ、出エジプト記のなかでも最も有名なところです。映画でいう見せ場であり、大スペクタクルと言えるでしょう。スペクタクルとは、映画、演劇で使われる言葉で、壮大な見せ物、大掛かりな仕掛けをして見せ場にすることを言います。とくにその中でも、スペクタクル巨編などとも言います。
そもそも、出エジプト記は映画を観るようなスペクタクルな場面が鏤められています。
その時モーセは80歳になっていました。400年前にアブラハムに結ばれた契約を、モーセを通して実現されるのです。
- 5章~10章で、エジプトに戻ったモーセは兄アロンと協力して、ファラオに交渉します。イスラエルの民を去らせるように。拒否したファラオに、神はモーセを通して9のしるし、奇跡を現わされます。しかし、ファラオは頑なであって、それでも拒否します。
- 11章~13章に来まして、ついに神は、10番目の奇跡をエジプトにもたされます。これが過越しです。雄羊を屠り、その血を鴨居に塗らなかったすべての家の長子と動物の初子が死んでしまったのです。恐れを持ったファラオは、ついにイスラエルを去らせる決意をいたします。
これがエジプト脱出です。しかし、神はストレートに乳と蜜の流れるカナンの地に導かれるのではなく、あえて遠回りの道を進むように導かれるのです。
- プロジェクター 2 シナイ半島の聖書地図
- エジプト王ファラオは、イスラエルの民を去らせたことを後悔し、戦車、騎兵の軍隊をもってあとを追い、イスラエルの民を攻撃しようとします。14章ですね。5節から10節をお読みしましょう。
前は海で、後ろはエジプト軍。イスラエルの民は退路を断たれて絶体絶命となります。
この海が割れて、紅海渡渉の出来事は、子から孫へ、孫からひ孫へ。子々孫々に伝えられ、受け継がれてきた物語でしょう。神と先祖イスラエルの親密な関係を言う物語です。
旧約聖書のほかの書にも、出エジプトの出来事が記されます。とくに詩編ですね。本日、交読文でお読みしました。詩編78編12~14節。また106編6~9節、22節。114編,136編13~15節などです。預言書にも出てきます。
そこで、本日の聖書14章節からですが、まことにスペクタクル(spectacle)です。海が割れる。空前絶後の大奇蹟です。天地創造の光景を見ることができるなら、まさしく、この海が割れるような光景で、神は天地を造られたのではないかと想像します。神の御手、神の息吹が海を割るのです。
十戒という映画をご覧になった方は、よくお判りでしょう。
※ プロジェクター 4 聖書地図 14章1,2節
15、16節をお読みします。また、19節からですね。21節まで。
- プロジェクター 5 モーセが手を海に向かって差し伸べると、海の水が分かれた。その光景です。
- プロジェクター 6 22節 「イスラエルの人々は海の中の渇いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。」とあります。イスラエルの人たちが歩いて向こう岸に渡っていく光景です。
エジプト軍も紅海を渡り始めます。しかし、雲と火の柱がエジプト軍の行く手を遮り、かき乱されます。イスラエルの民が渡り終えた時に、割れた海の壁が閉じ始め、元の海に戻っていくのです。そして、エジプト軍は紅海に飲み込まれていきます。
26節以下。
こうして、エジプト軍は全滅したのです。
さて、本日の説教は「海が割れる」ですが、副題を付けました。それは「何を見てい
るか」です。先に、出エジプト記の1章からダイジェスト的に13章までを要約しました。それぞれが読めば、視覚的に強い映像を想像します。それは、神のみわざが現実に現れていることを指しています。つまり、神が先頭に立って、あの超大国エジプトから神の民イスラエルを解放し、脱出するように導かれたということです。モーセは神の言葉を聞き、従ったのです。神が働かれた。そのことに尽きるのです。
しかし、イスラエルの民は先頭におられる神を認めず、目の前にある危機、苦難によって混乱しています。そこには今まで神がなさった数々のしるし、奇跡を忘れ、今の困難、怖れ、エジプトの軍隊にこころが圧し潰されて、叫ぶことしかできません。
10節
イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、また、モーセに言った。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出し たのですか。我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませ んか。」
イスラエルの民は、何を見ているのでしょうか。神がともにいます。神はそこにいます。昼は雲の柱、夜は火の柱としておられる臨在の主がここにいます。そのことをわきまえないのです。
しかし、現実は厳しい。屈強のエジプト軍 戦車、馬と槍。この世の力、権力、軍隊の装備です。しかるに、イスラエルは武器もない。徒手空拳です。
現実 困難、後戻りできない困難ごと、前には進めない壁がる。ここでは海。後ろにも戻れない。エジプトの軍隊。
広島サミット。G7。ヨーロッパの伝統的な民主主義国とアジアの日本VSロシア、中国の覇権主義国家という図式です。どちらも軍備は壮大です。核を保有し、それが戦争の抑止となっている。これが核保有国の論理です。ウクライナに侵攻し、多くの犠牲者を出しているロシア。中国とアラブ諸国がロシアと結びつき、G7とそこに結び付くアジア諸国との対立の図式があります。第2次大戦の前は、連合国と枢軸国という対立がありました。
軍事力、経済力が鍵となっています。そこには、神のちからは文字通り見えず、誰一人知ろうとしません。
聖書に戻りますが、
ここには神とモーセの関係があります。モーセは神にしっかりと結びつき、忠実です。ただ神を見ており、神の指示を待っているのです。
一方、イスラエルの民は、そこに火の柱、雲の柱を見ていても、現実に押し寄せるファラオの軍隊の勢いにこころ奪われ、逼迫しています。そのまなざしの先に、神はない。この世の力、数の勢いに圧倒されている。目には見えないお方のことを見ようとしない。そこに神はおられるのに。
モーセの言葉、13節
指導者の姿、胆力がここにある。物事に対して臆したり、動じたりしない精神力ですね。一緒になって騒ぐのではない。落ち着いて、神の救いを見る。信仰の言葉です。昼は雲の柱、夜は火の柱である主なる神がおられる。
「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしなさい。」
こうして、神は栄光を現されたのです。14章4節の言葉がここで実現したのです。
現実の苦しみ、恐れの前でうろたえてはならない。ひるんではならない。神がともにおられることを信じる。信仰をしっかり持つ。これが聖書の訴えるところです。
わたしたちは、神を見ることにつとめましょう。この世のちから、権力、華やかなさ、
誘惑に負けるのではなく、神の臨在、神のちから、神の国の支配にこころを向けましょう。
祈ります。