聖 書 ローマの信徒への手紙13章1~7節
説 教 神の国とこの世の権威
本日は、ローマの信徒への手紙13章1節から「神の国とこの世の権威」という題で説教します。1節に、
「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」とあります。
権威と同時に権威者という言葉が出てまいります。これは今より、2000年前の時代、王や皇帝など政治の権力を持っている人間を指すものと思われます。権威に従うとは、「この権威者に従いなさい」、「支配者に従いなさい」と同じ意味であります。小見出しにあるように、権威者はこの世の支配者であります。信仰の世界でいうと、地上の権力者ということですね。
2節
従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。
1.権威とは?
権威、権威者、支配者は神が立てられたもの、神の定めであるというのですね。権威とは何でしょうか? 威信、貫祿、威厳、威光、権勢、威力がある。そういう力なのでしょうね。一歩抜きん出ている力。その力に従う。
辞書には、 1.他の者を服従させる威力。2 ある分野において優れたものとして信頼されていること。その分野で、知識や技術が抜きんでて優れていると一般に認められていること。
1は近づきがたいものを感じますが、2は納得しますね。とくに科学者の権威、ノーベル賞を受賞した人の学問における権威、大学の学長、特別な資格を持っている人たちの権威などあります。裁判官、立法府、行政府の長など。要職に就いているひとたちということでしょうか。
「現代は、親父の権威が失墜している」と言ったりします。家父長制の世の中では、一家のあるじは父親です。父の権威が絶大です。父から長子へと権力が移ります。次男、三男は厄介者です。しかし、長子に何かあると、後継ぎが必要ですから、そこに次男、三男が出てくるのです。兄弟同士で跡目争いが起こることもある。歴史がそれを証明しています。
聖書においても長男、次男の争い、葛藤があります。カインとアベル、イシュマエルとイサク、エサウとヤコブ。新約では、放蕩息子とその兄。
権威は、時に暴力、武力で現されます。従わない者に対して、強制力を発揮するのです。法律がそうですね。法律と警察力が支配者の武器であります。
ローマの信徒への手紙の著者であるパウロは、この権威、支配者に従いなさいと勧めるのです。(王権神授説という言葉があります。王の権力は神が授けた。)
権威は秩序でもあります。政治的な安定を志向するものです。そのことで、「権威者は神に仕える者です」とあります。4節、6節。
わたしたちは、そういう秩序のもとに国家に対して義務を負っています。法律を守るという義務です。そして、国家の維持のために税金を納めるということです。国によっては、徴兵制があり、兵役に就くという義務があります。これは他国の侵略から自国を守るという義務です。この件に関して、愛国心の喚起というのがあります。
しかし、逆に神に反しているのならどうすべきでしょうか。いたずらに国民を圧迫し、支配者が自分の権力を満足させるために政治を行っている場合です。国民がその犠牲となる。今の北朝鮮。体制を維持するために警察力、軍事力で国民を監視している。国民の多くが飢えているのに、支配者とそれを維持する一部の人間が肥えている。移動も自由も言論の自由、集会の自由もない。公共の福祉もないがしろにされている。共産主義国家、専制主義国家などは、国民の福祉というよりも、権力の座についている支配者のための政治がおこなわれているとしか思えません。
聖書はそのことに対して、沈黙しています。革命を起こすべきだとは言いません。むしろ、従いなさいというのです。
では、どんなに悪い支配者でも忍耐して従わなければならないのでしょうか?
聖書全体を読むと、必ずしもそうではないことが分かります。たとえば、ペトロは福音を宣べ伝えていくことで、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と言っています(使徒5章29節)。法律で禁じられても、神の言葉を語ることはやめない。信仰を禁じられても、信じることをやめない。国家の権力で弾圧され、迫害されても、神に従うことを選んできた人たちがいるのです。
このことで、上よりの権威である国家、あるいは支配者とはわたしたちの信仰において、どういう位置があるのか、意味があるのか。その問いかけがでてきます。「教会と国家」という大きな問題です。国家に従うのか、神の国の主権者であるイエス・キリストに従うべきか。そういうところに立たせられる時が来るのです。
神の国は、あくまで心の世界、霊の世界のことであって、現実の社会と違うのではないか。そのように考えることもあります。
神の国を求める信仰に生きるわたしたち、現実の国家の間に生きるキリスト者のわたしたちという二面性をキリスト者はもっています。
政治の問題、経済、教育、福祉の問題などで、理想と現実に揺れ動きます。
その中での信仰生活を送っているのです。
大切なことは、聖書に聴くこと。神のみむねを知り、そこに生きていくことです。
目標は、神の国です。しかし、現実の問題に目を背けてはならないのですね。
キリスト者としての責任があろうかと思います。地の塩、世の光として生きる責任です。
権威に対する祈りはどうなのか。考えさせられます。教会は執り成しの祈りを行います。世界の平和、国家のために、為政者のために。
神学生時代。淀橋教会の早天祈祷会。
聖書による短い説教を峯野牧師が行います。その後、祈祷に入るのですが、その前にみんなで唱和する聖句があります。Ⅰテモテ2章1から4節です。毎朝の早天祈祷会ですので、皆さん暗誦しているのです。口語訳でした。
そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。これは、わたしたちの救主である神のみまえに良いことであり、また、みこころにかなうことである。神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。
その後に、出席者全員が祈るのですね。神学生15,6名と教会員が数名。20名以上が早天祈祷会に集います。毎朝、5時30分から、一年中続けられます。盆、正月も行います。
そこには、体制、反体制という概念はありません。王たちのすべての上に立つ人のために祈るのです。
わたしのことで恐縮ですが、学生時代は全共闘のシンパでした。ときに、デモに参加し、安保反対など叫んだものです。
最後に、もう一度従うということに言及したいと思っています。従うことにはいろんな意味があり、生き方の問題も絡んでいます。ただ、大事なことは何に従うかということです。わたしたちは従うものによって自己を規定されるのです。それは価値観でもあります。何を基準に生きているのかという問題であります。
イエス様は従い続けられた生涯でした。父なる神に従順でした。それは強制からではなく、自ら進んでであります。神の身分でありながら、しもべとなられたのです。外部の力によってではなく、自らの意思で、つまりご自身を献げられたのです。その根底には愛がありました。
フィリピ書2章にある通りです。
愛のためには進んでいのちを投げ出すことができるのです。わたしたちは、そのイエス様の愛と従順によって生かされているのです。
そこにわたしたちキリスト者の生きざまが見えてくるように思います。
祈ります。
政治的なこと、とくに戦前の軍国主義、警察の力が国民の自由を奪い、監視している時代、教会もキリスト者も無力でした。ただ祈ること、信じることで耐えてきました。そして、新しい時代が来ること、神様がその時代を到来させてくださることを信じ、祈ってきました。
そして、日本は敗戦しましたが、新しい時代が来ました。信仰の自由、集会の自由が保障されました。しかし、まだ真の神の国の喜びを目標に日々、理想の国家建設を目指し、信仰においても、神の国の祝福を目標に生きていくことができるように、聖霊のちからと助けを与えてください。