聖 書 ネヘミヤ記8章9~12節
説 教 主を喜び祝う礼拝
新年度に当り、一年の聖句を掲げて進もうとしますので、その聖句を柱として説教します。2023年度の教会聖句は、週報にありますように、「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」。標語は「主を喜び祝うことが信仰の源」とさせていただきました。
もう一度、声を出してお読みしましょう。
「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(ネヘミヤ記8章10節)
標語は『主を喜び祝うことが信仰の源』(ネヘミヤ8章10節)です。
声を出す。祈ること、賛美すること。こころとからだの健康にもいい。そのように言われます。わたしは毎日、5章を、声を出して読んでいます。通読ですね。一年に1回は聖書を読む。もう40年以上続けています。
「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」
ネヘミヤ記8章について、3年前の6月に説教しております。「復興の喜び」と題しました。ちょうど、コロナ禍がはじまったころで、対面での礼拝が休んでいた時でした。この3年間、教会は仙台青葉荘教会のみならず、日本の教会、そして世界の教会も礼拝を行うことがままならない状態でした。
その中でも、インターネットでのyou tube録画と配信により、動画を通して礼拝できるようになったのです。まさに文明の利器ですね。
その時、コロナが収束して、休んでいた礼拝を再開し、復興することの喜びを説教しました。3年後、まさに2023年度の4月において、わたしたちはコロナが完全に収束したわけではありませんが、ゆるやかになり、対面礼拝ができるようになったのであります。
1.ネヘミヤ記の歴史的背景
ネヘミヤ記の背景は、以下の歴史的な出来事によります。紀元前6世紀バビロニアの大軍がエルサレムに侵攻し、エルサレムの街を徹底的に破壊しました。街の中心であり、イスラエルの人々のこころと信仰の核であったエルサレム神殿が瓦礫の山へと崩壊しました。イスラエルの民の多くが捕囚となり、バビロニアの首都バビロンへと連れ去られたのです。これが世に言うバビロン捕囚です。イスラエルはこのことを神の審きとみなし、徹底的な悔い改めに導かれたのです。
神はイスラエルを救うご計画の中で、バビロニアを滅亡させ、ペルシア王国を興されました。ペルシア王キュロスは捕らわれていたイスラエルの人々を解放し、エルサレム神殿の再建を許したのです。
捕囚から帰還したイスラエルを指導したエズラ、ネヘミヤによって神殿が再建されました。再建なった神殿の献堂式での喜びがネヘミヤ記8章に記されています。
2023年の現在、世界の国々、そして世界中の教会も新型コロナ・ウイルス感染の恐怖と不安の中で活動も限られていました。コロナ禍の終息ではありませんが、緩和のなかでwith コロナ(コロナがある生活)として、教会の伝道と牧会の活動を再開し、信仰の復興と新たな教会再建へと導かれることを願います。
さて、聖書に戻ります。
2.主を喜び祝うこと
9節からお読みしましょう。11節までです。
「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」 レビ人も民全員を静かにさせた。「静かにしなさい。今日は聖なる日だ。悲しんではならない。」
ここには、3つの重要な言葉が記されています。
- ひとつは、「聖なる日」ですね。3度記されます。9節後半「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」
10節「今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。」
11節「静かにしなさい。今日は聖なる日だ。悲しんではならない。」
聖なる日とは、安息日です。土曜日です。ユダヤ教は、今でも安息日は土曜日です。しかし、キリスト教の安息日は、日曜日です。日曜日を聖日、聖なる日としています。なぜですか。イエス様が十字架の死から甦られた日だからです。ロシア語で日曜日は復活日を意味します。ちなみに、
неділя ウクライナ語、ロシア語 日曜日、安息日
Воскресенье ロシア語 日曜日、復活
安息日は、聖なる日。これは泣き、悲しむ時ではない。喜びの日。主の復活の日。すべてが復活する。わたしたちが献げる聖日の礼拝。
- 「主を喜び祝う」 わたしたちが喜ぶことはどういうときでしょうか。また、祝うとは
どういう時でしょうか? 嬉しい時、楽しい時、快活、めでたい。幸いな時、祝福に満ちた時、小躍りする喜び、こみあげる喜び、歓喜に酔いしれる。
人生最大の喜びは、結婚、こどもの誕生、孫の誕生、肉親、自分のいのちの継続です。目指す高校、大学に合格した。ひいきをしているプロ野球の球団が優勝した。スポーツの世界ですね。サッカー、ラグビーなどなど
しかし、礼拝することが喜び、活ける神との交わり。神の御声を聴く。聖書を通して、神の言葉を聴く。これが何よりも喜びとする。感謝とする。自分のいのちが贖われた。滅び、地獄ではなく、神の国、天国の約束を与えられている。その喜びですね。
- 力の源
ネヘミヤ記 苦難を経てここまでたどり着いた。感謝。神に感謝。守られた。導かれた。人生において、常にともにおられる。見守っておられる。愛なる神様です。独り子イエス様をわたしたち人間の身代わりとして十字架につけるほどに、わたしたちを愛しておられる神様です。その方を、毎週の日曜日、お会いして、賛美し、祈り、神のみ言葉を聴く。
この一週の幸い、喜び、ここに神が臨在してくださっておられる。
その確信、これが信仰です。感情的なことは二の次です。それが優先されることではない。親子、夫婦の絆をたとえてみますと、愛情、好きという感情だけではない。これと同じです。大切なことは、持続していく意志、それこそが愛情ですね。そして、これが信仰です。それが力となる。神が聖霊を送り、注ぎ、生きる力としてくださる。
ちからは熟練、熟達、何事にも負けない、揺るぐことのない信仰のちからです。
毎週の礼拝ごとに使徒信条を告白する。主の祈りを祈る。毎日祈る。そういう持続する意志。それが力となるのです。
ローマの信徒への手紙12章1節
わたしたちがささげる礼拝が信仰の源となる。それは神のいのちと恵み、祝福を与えられるからです。その信仰ですね。神は生きる力、生きる意味、生きる喜びを聖霊によって与えてくださります。そこに、わたしたちの未来がある、将来への希望と期待、信仰の力の源があるのです。
礼拝こそが喜び、信仰力の源です。そこに主のご臨在と、聖霊の注ぎを受けるのです。
聖霊に満たされましょう。