聖 書 ヨハネによる福音書19章28~30節
説 教 渇 く
2月22日よりレントに入り、主のご受難と十字架の死を覚え、偲ぶ日々を過ごしてまいりました。本日より、受難週に入ります。
本日はヨハネによる福音書19章28~30節のところで説教いたします。
イエス様は十字架につけられ、お亡くなりになるまでに7つのことばを話されています。十字架上の七言と言われます。
1.十字架上の7つの言葉
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書で記されているイエス様のお言葉です。
その激痛に耐えながら声を発せられるのです。
七つの言葉、次の通りです。
(1)「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)
(2)「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)
(3)「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」
「見なさい。あなたの母です」(ヨハ19:26、27)
(4)「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(マタ27:46。マコ15:34。詩22:2)
(5)「渇く」(ヨハ19:28)
(6)「成し遂げられた」(ヨハ19:30)
(7)「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46。詩31:6)
本日の聖書、ヨハネによる福音書19章28節にある「渇く」は第5番目の言葉です。
「渇く」は、普段わたしたちが使う言葉としては、喉が渇くときに使う言葉です。
渇きには、肉体的、生理的な欲求の渇きがあります。同時に霊的な渇きもあるのです。魂の渇き、こころの飢え渇き。愛の渇きです。子どもは親の愛に飢え渇きます。若い男女は、愛の渇きを満たそうとします。
このことを覚えて、先に進みます。
イエス様は「渇く」と言われました。この渇きは何でしょうか。イエス様は霊的に満たされたお方です。神の子。人としてお生まれになりましたが、神の性質を持たれています。人として飢えも渇きも経験されたでしょう。同時に、神として聖霊に満たされておられました。
ヨハネ19章28節以下を読む時、イエス様は明らかに肉体的生理的欲求による渇きを覚えておられました。最初に申しましたように、イエス様は十字架につけられました。両手両足にくぎを打ち込まれたのです。釘で打たれた両手両足が、からだが落下しないように支えています。その激痛に耐えながら声を発せられるのです。
しかし、28節に次のように記されています。お読みしましょう。
この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。
この成し遂げられたのを悟られたことで「渇く」と言われたこと。これを理解することは大切です。「渇く」と言われたことで、聖書の言葉が実現したからです。渇きの聖書の歴史がある。創世記からマラキ書、新約ではマタイからヨハネの黙示録にいたる。
詩編22編は重要な聖句です。2節
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(マタ27:46。マコ15:34。詩22:2)
「わたしの神よ、わたしの神よ。なぜわたしをお見捨てになるのか」ですね。
同じ22編の16節は次のようになっています。
口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。
激痛と渇きです。痛みに喘ぎ、息ができなくなるなかで、舌が上顎に張り付くほどに喉がからからに渇く乾きをもたれたのです。
この聖句を読むと、イエス様の渇きは、単なる肉体的、生理的な欲求ではないことが分かります。さらに、ヨハネ19章30節
イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
その渇きこそが、聖書が実現し、神のご計画が実現し、成し遂げ、完了したことをイエス様は悟られたのです。御自分の死でもって、神の計画が実現し、聖書の言葉が成就したのです。
イエス様が人として生まれた。降誕された意味がここにあるのです。わたしたちは、昨年11月27日からアドヴェントにはいり、クリスマスを祝いました。神の子イエス様のお生まれです。それは神の永遠からのご計画であったことを知っています。御子イエス様のお生まれは、十字架の死、贖いなのだということですね。聖書は、創世記からマラキ書にいたるまで、イエス様の誕生と死を預言している。その預言の成就がこの十字架にあるのです。
イエス様も当然、御自分の十字架による死が、父なる神のご計画の成就であることをご存知です。28節のすべてのことが成し遂げられたことを知り、とはそのことを言うのです。
さらに29節ですね。この「渇く」という言葉は、旧約の詩編69編22節の預言の成就とされます。
「人はわたしに苦いものを食べさせようとし、渇くわたしに酢を飲ませようとした」
ですね。
そして30節。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
これがイエス様の死、臨終の言葉です。
さて、最初に渇きには二つの意味があると申しました。渇きには、肉体的、生理的な欲求の渇きがあり、また霊的な渇きもある、と。魂の渇き、こころの飢え渇き。愛の渇きです。
イエス様が「渇く」と言われたのは、肉体的、生理的欲求だけではありません。十字架の激痛と苦しみの中でも、イエス様は霊的な渇き、まことの愛の渇きを満たすために道を開かれたのです。この十字架による贖いによって、罪からの解放、それは肉体的、生理的な欲求を満たすための飽くなき人間の追求と貪欲からの解放です。霊的な渇き、真理、永遠のいのちにいたる道は、この十字架によって成就し、実現できたのです。それゆえに、イエス様は「成し遂げられた」として息を引き取られたのです。死から復活によって、可能とされた道です。
ヨハネによる福音書4章13節をお読みします。サマリアの女のところです。
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く」
しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
こころの渇きを潤し、満たすのは、聖霊ですが、イエス様の十字架の死と復活、ペンテコステによって実現するのです。
ヨハネの黙示録7章16節
彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。」
ヨハネ7章37,38節
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
マタイ5章6節
義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。
何に満たされますか。義。神の義。聖霊の注ぎによって聖霊に満たされ、救いといのちに満たされるのです。
イエス様の十字架は、イエス様を信じるすべての人に命の水の泉が注がれ、生かされる。
イエス様の受難は、わたしたちが永遠のいのちをいただくのためであります。
釈義
28節
Μετὰ τοῦτο εἰδὼς ὁ Ἰησοῦς ὅτι ἤδη πάντα
τετέλεσται, ἵνα τελειωθῇ ἡ γραφή, λέγει, Διψῶ.
Διψῶ Διψάω
- 喉が渇く、喉の渇きに苦しむ 2)渇望する。魂の渇き、こころの渇き、魂の飢え、罪による審きから救いを求めるたましい。新生の飢え。リフレッシュされ、支えられ、強化されるものを痛感し、熱心に切望している人
- マタイ5:6 「義に飢え渇く人々はさいわいである。その人たちは満たされる」
何に満たされますか。義。神の義。聖霊の注ぎによって聖霊に満たされ、救いといのちに満たされる。
τετέλεσται 完了、成就 成し遂げる、
τελειωθῇ 成し遂げる、満たす、成就、実現