聖 書 ローマの信徒への手紙12章13~14節説 教 嫌いな人のために祈れますか
16世紀初頭に活躍した中国の思想家に王陽明がいます。彼は知行合一を言うのですが、知行合一とは、真に知ることは必ず実行を伴う。知と行とは表裏一体で別のものではないという説であります。知とは知識であり、行は行動・実践です。この両者は合一、すなわち合致していなければならないと言うのですね。知識が先で実践は後からと言う宋の朱子の先知後行説に対して唱えられました。知って行わないのは、未だ知らないことと同じであることを主張し、実践重視の教えを主張した。
つまり、口先だけではないということです。陽明学と言われています
日本に40年宣教師として働き、引退してアメリカに帰国したご夫妻を訪問したことがありました。彼らの車に乗って関係する教会を訪ねました。その車の後部にステッカーが貼ってあるのですね。クリスチャンで車の後部によくステッカーが貼られていることがあります。イクスース(魚)のマークで5つの文字。イエス・キリスト・神の子・救い主の頭の字です。
ラーマズ宣教師の車のステッカーは、こういう文章でした。それは、To love is to do. To do is to care. 愛することは行なうこと。行なうことは、お世話をすること。
先ほどの王陽明の言葉から言えば、知ることを愛することと言い換えるとわかりやすいですね。知ることは行うこと。愛するとは、お世話をすること。
本日の聖書は、信仰は愛することであり、愛の実践を伴うことである。そう宣言していることだと信じます。
それは、イエス様の教えです。観念的というより実践的です。知ることで終わらない。満足しない。ヤコブ書にあるとおり、行いのない信仰は、むなしいのです。
ローマの信徒への手紙の著者であるパウロは、1章から諄々とキリスト教とは何かと説いてきました。神に従うとはどういうことか? 信じるとはどういうことか? これがローマの教会に対する教えでもあったのです。そして後半に、信じた者、教会の一員となった者の実践を説くのですね。まさに、知行合一です。それは、責任と実践ということです。信仰とは、行いを伴うということですね。その行いは、人にみせる行いではなく、人から評価される行いでもありません。それは愛の行い、愛のわざです。
聖書を読みましょう。13節。
1.貧しい聖徒たちへの配慮
聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。
他の訳では、<貧しい聖徒を助け>(口語訳)とあります。ギリシャ語本文の意味は、貧しさを分かち合いなさいと解釈することができます。恵みと喜び、感謝を分かち合う。シェアするのですね。共に負いあう。初代教会は、貧しさを分かち合うために献金をしました。使徒言行録に記されています。エルサレムの貧しい教会員のために献金をする。
クリスマスになるといろいろな福祉団体や教会から献金の依頼が山のように来ます。仙台青葉荘教会は今年も、25の教会、キリスト教関係の施設に献金を捧げました。また、トルコ、シリアの地震で被害を受けた方々の復旧のために献金を捧げています。ウクライナのためにも募金をしています。
教会の歴史は、その創立以来、貧しい人たち、弱っている人たち、弱者、病人のお世話をする働きがありました。こんにちにいう福祉です。まだ病院、高齢者ホーム、親のいない子どもたちに対するお世話をしてきたのです。そのために教会員が助け合い、献金をして支えてきたのです。
マザーテレサの働き、戦後間もなくのエリザベスサンダーホームの澤田美紀さんの働きがありますね。教育者も出ています。貧困地域の飢餓救済、紛争地域の難民救済、または災害・事故などの犠牲者や遺族に対する支援活動などがあります。
2.旅人をもてなす
ホスピタリティーを追い求める。古代オリエントでは、旅人をもてなすことが一般的でした。これもお互い様なのですね。現代のように、旅館もホテルもない時代です。宿を貸す、食事を共にする。現代の教会ではどうでしょうかね? 聖書を実践しようと、まったくの面識のない見知らぬ人を泊めることは難しいですね。クリスチャンで、しかるべき人の紹介があれば泊めることはできるでしょう。
いつもではありませんが、仙台に来るまえの教会で、家庭内暴力を受けている方を役員会の承諾をえて、10日ほど教会に泊めたことがあります。食事は家内が作って与えました。
仙台に来ても、深夜12時頃にドアフォンがなり、誰かと思いでたところ、高校生の女性が牧師館の玄関に立っていました。やはり、家庭内暴力を受けて、家を飛び出したというのです。東日本大震災の津波でお父さんが亡くなりましたが、母親が再婚したのです。しかし、その夫、義理の父親が暴力を振るうということで、逃げたのです。
教会は避難所のようなところがあります。駆け込み寺と申します。駆け込み教会ですね。
5日ほど、教会の和室で寝泊まりしました。食事と風呂を提供しました。児相に連絡し、児相が引き取ることになりました。教会にいつと、いろいろな人が訪ねてきます。
3.迫害する者への祈り 14節
あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。
迫害する者のために祝福を祈るのですね。呪うのではない。イエス様もマタイ5章44節で迫害する者のために祈りなさいと命じられています。祝福を祈るとは、相手に神からのよいものが与えられるように祈ることです。呪いは逆で、悪しきことが起こるように祈ることですね。これはなかなかできないことです。わたしたちは、自分に対して攻撃してくる人に対して構えます。言葉や暴力に対して、倍にして返したくなります。「目には目を、歯には歯を」なのです。
しかし、これもイエス様は
悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。(マタイ5:39)
といわれるのです。そんなことができるのだろうか。そう考えますね。すべての人がその通りにしたら、平和でしょうね。警察もいらなくなるかもしれません。毎日のように、殺人事件、傷害事件が報じられています。世の中は、殺伐としています。うるおいやあたたかみが感じられず、人を非難すること、攻撃することが目立つ世の中です。
教会が愛と優しさ、喜びの泉となればいいですね。教会は社会という荒波から守る港であります。そこで停泊し、新しい力を受けて、航海に出発する。長い航海からの疲れを回復し、ゆっくり憩い、平和といのちと力を補給する。それが教会ですね。
迫害-今の時代はありません。戦時中には迫害も弾圧もありました。ホーリネス教会は6名の牧師が殉教しました。今は、平和です。迫害する人のために祝福を祈る。別の言葉に言い換えれば、嫌いな人、いやな人、話もしたくない人。その人のために祝福を祈れるかということです。
本日の説教題は、「嫌いな人のために祈れますか」としました。13節が愛の実践を勧めているにもかかわらず、14節では、迫害する者のために祝福を祈りなさいと勧めています。これも愛のわざ、愛の実践というのです。
いまから10年以上も前のことです。前任の教会員から相談を受けました。苦しみ、悩んでいるというのです。日時を指定して面談する時を持ちました。その方は、このように言われるのです。
「わたしには嫌いな人がいます。イエス様は迫害する者のために祝福を祈りなさいと言われました。でもわたしは、その人を憎んでいます。嫌いなのです。聖書に呪ってはならないとあります。むしろ呪いたくなるくらいです。そうです。わたしは、その人のために祈れないのです。これって、罪なのでしょうか?」
そのように悩みを打ち明けられました。真面目で信仰の深い人でした。礼拝も祈祷会も休むことなく出席され、ほかの教会員からも信頼され、愛された方です。教会の奉仕も熱心でした。
皆さんはいかがですか。好きな人ばかりでない。教会には、いろいろな人がいます。教会は信仰の共同体であり、神の家族だと言います。愛し合う。素晴らしいことです。でも、人間ですから、いろいろなことがあります。
カウンセリングでは、「人を憎んではならない」とクライアント(相談者)に言うことはありません。責めることはしません。ありのままの自分であることが大切だとされます。愛することができない。むしろ、嫌いだ、いやだ。そのことを受け入れるのですね。では、神様は愛することができない自分を罪とされないのだろうか。そのように後ろめたい気持ちをもつことがあります。それさえも、受け入れるのです。神の前にそのことを認める。神はダメとはいわれません。そのように答えました。むしろ、無理して愛していこうとする必要はない。無理して愛していこうとすると、自分が苦しむ。愛せない自分が赦せないということです。
それは病気になります。抑圧と申しますか、うつ的状態になるのです。無理をしなくていい。その人から離れる。近寄らない。話しかけなくてもいい。挨拶もしない。
世話をやき、話しかけ、そりが合う人がいる。そのひとに任せればいい。すべての人にいい感じを持ってもらわなくてもいい。
イエス様は、ファリサイ派の人々をこっぴどく、徹底的に批判し、非難されていますね。マタイ23章です。まさしく呪いの言葉に等しいものです。実例を引きませんが、あとで読んでいただきたいと思います。そんなイエス様も十字架の上で、赦しのことばを語られました。呪いの言葉ではない。イエス様が十字架上で、ご自分を十字架につけた人たちに呪いの言葉を語られたとすれば、わたしたちの信仰はないでしょう。イエス様は赦されたのです。
迫害する者のために祈るとはどういうことでしょうか? 現代流に言えば、いやな人、嫌いな人、憎む人、赦せない人ですね。
赦すことがないために祈れない。心苦しい。それは神のみ前に苦しみを覚える。
赦すことができないことをお赦しくださいと祈るのです。これが一番肝要かと思います。
赦せないことの疚しさを感じることがあるでしょう。
実は、19節に次のような言葉があります。
愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と。
赦しと復讐、報復については次回の説教で行う予定です。これとの関連ですね。次回、この赦しと復讐について説教いたします。
戻りますが、赦すことがないために祈れない。心苦しくなる。神のみ前に苦しみを覚える。信仰がないのかと自分を責めることもあります。しかし、そのようなことはありません。
赦すことができないことをお赦しくださいと祈るのです。これが一番肝要かと思います。
赦せないことの疚しさを感じる必要はないのです。それさえも神にゆだねることです。神に裁きをお任せする。これが平和と安定した信仰生活を送る秘訣です。
お祈りします。
犯罪的なこと
家族が巻き込まれる、自己
激しい口論に追い込まれた。被害者意識 悪口を言われた、非難された、陰口
あとから、「あの人、あなたのこと悪く言っていたわよ」と言われた。
こういうことが人間関係を悪くする。
名誉棄損
言った、言ってないとの争いになる
皆さんはいかがですか。好きな人ばかりでない。いろいろな人がいます。
ある教会で牧師批判をする兄弟がいました。教会の役員でした。忠実に教会に仕えてきた方です。その牧師はその役員に「教会を出て行ってほしい」
そのように言ったそうです。そして、その役員は別の教会に行くようになりました。
その教会は教団を離脱し、別の教団に加入しました。
祈りは人格的なものです。そこに、対人関係が生じます。誰が、誰に向かって、誰と共に、という関係での祈りです。誰に向かって、誰と共に、誰が、という順に話しを進めます。
1 誰に向かって
神様ですね。人格的な神様です。偶像ではありません。自分でもありません。
自己との対話という関係で、自己に向き合うことがあります。それは自己との対話であり、孤独者が好むものです。自己は、祈る対象ではありません。
祈りは、神に向かって祈るのです。そこには帰依があります。信仰であり、信頼関係
が生じています。人格関係です。知っている方です。自分を明け渡している方です。
親に向かって話しかける。そこには、愛と信頼があるはずです。同じ原理です。
2 誰と共に
祈りは教会の信仰共同体の祈りでもあります。礼拝の牧会祈祷ですね。牧師がひとり、独白しているのではありません。教会の祈りです。教会員を代表して祈っているのです。全体の祈りです。信仰の共同体としての教会、教団の祈りです。
これは汎く、いかなる宗教にも共通のものでもあります。一神教でも多神教でも。
自己以外の何ものかに向かって祈る祈りは自己のみならず家族と共に信仰の共同体と
ともに分かち合うのです。シェアですね。世界中の人々がこころを一つにして、平和の
ために祈ることもそのひとつです。
3 誰が
それは自己です。自己自身です。。祈る者としての自己。それは謙遜さ、無を感じざるをえないときに、自己は祈るものとなります。自己が神となるときは、祈りはありません。