2023年1月15日 降誕節第4主日礼拝

2023.0115.Syuuhou

聖 書  ローマの信徒への手紙12章3~8節

説 教  みんな違ってみんないい

元旦礼拝及び先週の礼拝での説教において、12章1節と2節を取り上げました。そこに示されたテーマは、「献身」ということです。自分のからだを神に喜ばれる献げものとするということですね。もう一度お読みします。

こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。

ここでは、わたしたちキリスト者と天地万物の創造主なる神との関係が強調されています。イエス・キリストの十字架の贖いによって救われているわたしたちと、御子イエス様をわたしたちのために十字架につけるほどにわたしたちを愛された父なる神との関係です。そこには、仲保者イエス様がおられます。神と人間との間を仲保されるイエス様です。仲保とは、両者の間に立って執り成しをするということです。大切な言葉です。

さて、本日の3節から8節までは、「教会の交わり」がテーマです。キリストにある交わりです。神とわたしたち人間との間にキリスト・イエスの十字架という仲保がある。そして、教会の中でキリスト者同士の間にもイエス様がおられるのです。ここにも仲保者としてのイエス様がいらっしゃるのです。キリストにおける交わりです。十字架とは、縦の線ですね。天辺の神と下位の人間の線です。横の線は、キリスト者同士の交わりを意味します。交差するところ、ここに十字架のイエス様がいらっしゃるのです。

1.キリストをかしらにした交わり―これが教会

教会はキリストのからだであります。キリストの十字架によって贖われ、救いにあずかったわたしたちキリスト者の信仰共同体が教会なのですね。そこにキリストをかしらとする教会の交わりがあります。まじわりの象徴は聖餐です。聖餐式は、コロナ禍前は月の第一聖日に執り行っていましたが、残念ながら、コロナ禍のために年に一度になってしまいました。キリストのからだであるパンと血潮をあらわすブドウの杯をいただく信仰の交わりです。イエス様との活きた交わりですね。

そして、み言葉によってキリストの御声を聞く。これもイエス様との交わりです。キリストとの信仰の交わりです。ここには信仰を告白し、洗礼を受けた兄弟姉妹との交わりもあります。ともにキリストを礼拝するという交わりです。

2.聖霊の交わりとしての教会

 聖霊の交わりとは信仰の交わりでもあります。信仰者の交わりです。兄弟姉妹、神の家族としての交わりです。

 この交わりは、この世の同好会とか趣味のサークルのような交わりではありません。同好会、趣味のサークルは気楽で、心置きなくリラックスできるものです。そこには責任も義務もないのです。好きな時にやめることもできます。気持ち次第です。しかし、教会はそうではない。信仰によって神に誓約した霊の交わりです。

 しかし、その交わりでも、この世の同好会や趣味のサークルのような交わりになる可能性もあります。注意が必要ですね。

 祈りとか礼儀とか尊敬、敬愛の念が欠けてしまう危険があります。狎れるとは、妥協であり、この世の肉的なものに染まるのです。「畏れる」ですね。「恐れる」ではなく、畏敬の念という意味で、畏れ敬うのです。霊的なことに敏感であって、この世のことに妥協しない。この世に倣わない。狎れきってしまわない。

3.教会の交わりにおける個人 ―― 

神のご計画、それは人間には違いがあるということ。

 3節から聖書は、教会の交わりにおける個人について語っています。お読みします。

わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。

教会は男性、女性、幼児、若者、壮年、年長者と多様な人たちによって構成されています。それぞれ異なる家庭があります。壮年においては、多様な職業の人たちです。そこでは自由に同好会的に集まってできた集会ではありません。神に召され、呼び出された信仰者の集いです。聖霊の御声に従い、神の言葉である聖書を信仰の規範として、信仰告白した恵みの集いであります。

しかし、その多様性のゆえに、教会は必ずしも一致しているわけではないのです。

「自分を過大に評価してはなりません」とありますが、原語は「分を越えて思い上がるな」という意味です。そして、「神が各自に分け与えてくださった信仰の秤に従って、慎み深く思うべきです」ということであります。謙遜さが求められるのです。

 当時の教会では、奴隷制社会でしたから、様々な身分の人たちが教会に集っていました。貴族や軍人、政治家、商人、貧しい人たちです。今日のような民主主義社会ではないのです。

 また、多様な賜物を持った人たちもいたのです。6節以下ですね。

わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。

 しかし、この聖句は教会の中の組織というより教会を構成しているひとりひとりを意味しているのです。機能、役割ともいえるでしょう。同じ意味内容をコリント一の手紙 12章と14章全体でパウロは語っています。それは神が与えられる賜物に関して、です。

4.神のご計画 ―— 違いが一つに結ばれて、神の栄光を現す

 コリント一の手紙 12章では、霊的な賜物として以下に列挙しています。

そこには、「聖霊の働きとして、全体の益となるためです」と記されています。「知恵の言葉、「病気をいやす力」「奇跡を行う力」「預言する力」「霊を見分けるちから」「異言を語る力」「異言を解釈する力」

また、教会を有機的な働きの場とするために賜物を与えられました。その賜物には「使徒、預言者、教師、奇跡を行う者、病気をいやす者、援助者、管理者、異言を語る者」とあります。

このような聖霊の賜物によって、キリストのからだが構成され、キリストを証しし、福音宣教が進められているのです。

コリントの信徒への手紙一の13章では、これらの賜物の最高の道として「信仰、希望、愛」の三つを挙げているのです。

これはキリストの栄光があらわされるためです。賜物を与えられた個人の栄光ではありません。神があがめられること。これこそ最も大切なことなのです。

いまのわたしたちの教会、全世界の教会において見られるものですが、初代教会、聖書が記された時代ですね。預言も、いやしも奇跡も異言もほとんどありません。

それでも、教会は2000年間、福音が宣べ伝えられ、存続しているのです。これからも主の再臨にいたるまで教会はあり続けるでしょう。

年末、年始にかけて各種のスポーツが開催されました。サッカーのワールドカップですね。ラグビーもありました。箱根駅伝、野球。これらは団体競技です。これらのスポーツの特徴は、選手にそれぞれ役割があるということです。相撲や剣道、柔道は個人の競技です。

野球を例にとれば、9人のポジションがあり、選手はそれぞれの役割を与えられています。投手、捕手、一塁手、二塁手などの内野を守る選手、外野を守る選手がいます。9人が投手ではありません。9人が捕手ではありません。サッカー、ラグビーもそうです。サッカーは11人、ラグビーは15人の団体競技です。選手には、それぞれ役割があるのです。

てんでばらばら、ではない。一つとしてまとまりがなければならないのです。つまり役割を自覚して、その責任を持ち、実行する。そこで必要なのはチームワークです。めいめい勝手だと前に進めない。船頭多くして舟、山に登るです。

教会も同じです。聖霊による賜物という秩序と一致があります。分裂、無秩序ではありません。バベルの塔は分裂、ばらばらです。一致、統一されていく。ひとつとされる。

キリストのからだは、教会に属する教会員、キリスト者ひとりひとりが、からだの部分として機能し、その役割を聖霊の助けによって果たすのです。

やはり第一コリント12章12節以下にあるように、ひとつのからだの部分として構成されています。「足が、わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言えないのです。また、目が手に向かって、「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。

体の各部分は配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

これが教会の交わりですね。キリストをかしらとする教会の霊的な交わりです。このことを覚えて、一年進んでまいりましょう。

自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。

祈りましょう。