聖 書 ローマの信徒への手紙11章25~36節
説 教 秘められた計画
1.神の秘められた計画
神には、秘められた計画があるということです。25、26節ですね。
兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。
ギリシャ語原典では、ミュステーリオンです。ミステリーとかミステリアスの元々の言葉ですね。神秘とか言います。このミュステーリオンは、「秘められた計画」と訳されています。口語訳では、「奥義」と訳されていました。「秘義」と訳している聖書もあります。神様が秘められていた計画、奥義とは、何でしょうか? (エフェソ1:9、3:3,9)
元々、神はご自身が持っておられる計画を本当は明らかにされているのです。それが聖書です。啓示というのは、そのことを言います。聖書は啓示の書なのです。摂理、救済史
とも言うことができます。
啓示とは、超越的な存在である神が真理もしくは通常では知りえない知識や認識を開示されること、明らかに示されることを言います。新約聖書にヨハネの黙示録があります。これも啓示です。アポカリプシスといいます。覆われていたものが、その覆い(ヴェール)をとって明らかにされる。これが啓示であり、黙示です。
では、何が隠されていたのか? 何が覆われていたのか? 元々、神は少しずつですが、ご自身の計画をわたしたち人間に示されていたのです。神の計画とは、人間とすべての被造物を救うこと。救済にあるのです。そこに神の愛があります。神は、人間を救うのにあっという間に、瞬時におできになると思うのですが、実際は長い時間をかけて救おうとされるのですね。
なぜか? それは分かりません。神の秘められたおこころであると思います。ただ、救済史といって、神と人間の救いをめぐっての歴史がある。それが聖書であるということです。
神はアブラハムやヤコブ、モーセなど旧約聖書に登場する人物を通して、少しずつ啓示されます。それは律法であり、預言書であります。最後に、神はとっておきの秘密を明らかにされたのです。それが救い主イエス様です。
神の秘められたご計画は、神が人となり、その人なるイエス・キリストがわたしたち人間の罪を贖うために十字架にて死なれたことを言います。それのみならず、甦られて、死に打ち勝たれたのです。今は天に挙げられましたが、再臨されて世の終わりとなることを言います。キリストの再臨、神の国の来臨、世の終わり、最後の審判です。使徒信条で告白するように、「かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを審きたまわん」なわけです。
2.ユダヤ人の回復―救い
この、世の終わりと関連して、ユダヤ人の救いが回復していく。そのように、聖書は記しています。聖書は、ユダヤ人を通して与えられました。神はアブラハム、イサク、ヤコブというユダヤ人を選ばれ、モーセ、ダビデを指導者としてのユダヤ人の歴史を導かれました。そして、肉によればイエス様もユダヤ人として生れ、その弟子たちも、パウロもまたユダヤ人なのです。福音はユダヤ人を通して与えられたのです。ローマの信徒への手紙の著者、パウロの関心事はユダヤ人の回復と救いでもありました。
前回は、接ぎ木のことを説教でお話しました。10月30日の礼拝ですね。「神の慈しみと厳しさ」と題しました。
木があります。根っこは、神のことば、いのちです。幹は教会、枝はユダヤ人です。しかし、ユダヤ人という枝は切り取られ、異邦人が接ぎ木されたのです。この状態で2000年がたちました。いつか、もう一度、神はユダヤ人を回復される。これがパウロの信仰でもあります。もう一度25節を読みましょう。
兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。
(26から27節は、イザヤ書59章20~21節からの引用です。)
また次のように記されています。29節。
神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。
他の訳を見てみますと、次のように訳されています。
神の賜物と召しとは、変えられることがない。(口語訳)
神の賜物と召命とは変わることがありません。(新改訳)
神の恵みの賜物と召しとは、破棄されることがないものだからである。(関根正雄個人訳)
英語ではcall ですね。For the gifts and the call of God are irrevocable.
すなわち、一度選び、導かれた民を神は完全に忘れられ、捨て去られたのではないということです。人間の愛において、かつて、愛したもの、今は離婚した。しかし、愛し合った事実は消すことはできないのです。ましてや、神のことです。愛は消えることはありません。
3.神の憐れみー恵み
それは、今は退けられているが、神はもう一度回復されるという確信です。それは神の憐れみという言葉によって表されています。30節から32節の中で、4回も憐れみという言葉が使われているのです。
この憐れみは、神のご計画の中で一度は退けたユダヤ人に対する神の愛といってもよいでしょう。イエス様を退け、拒否し、十字架につけたユダヤ人です。一部のユダヤ人であったとしても、その罪は大きいものであります。
そこには、無条件の愛、無条件の恵みです。自分の価値、資格、功績ではありません。律法を守り、行なうことで、ユダヤ人の誇り、高慢がありました。しかし、神の愛は、無条件の愛なのです。
33節
ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。
ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。(口語訳)
パウロは、霊感に満たされて思いを熱くしています。神のご計画、神の定めは究めることができないのです。
(34節は、イザヤ40章13節からの引用ですが、35節はヨブ記35章7節と考えられています。)
前回は、交通事故の証しを紹介しました。今日は、もう一つの身近な話をしたいと思います。知り合いの牧師です。以前ですが、いのちのことば社の「百万人の福音」誌に掲載されたことがありました。
その牧師は、女性です。実は、一度結婚されていました。しかし、いろんな事情で離婚されたのです。その時は、まだクリスチャンではありませんでした。ある時から教会に通うようになり、悔い改めで洗礼を受けました。教会生活を続けるうちに、聖書を通して自分の結婚と離婚を考えるようになったのです。
その女性は思いました。「わたしは放蕩息子のように、神に背いてきた。そして、夫にも背いてきたのではなかったか? 放蕩息子を愛し、その帰りを待っていた父のように、神はわたしを待ち、回心を喜んでくださった。神は決して捨てられることはない。」
そう信じたとき、彼女はもう一度前の夫に手紙を書いたのです。
「わたしは、クリスチャンになった。洗礼を受け、教会に通うようになって、今は平安である。信仰生活を続けるようになって、神はもう一度夫であったあなたとのことを考える機会を与えられた。できれば、もう一度あなたとやり直しをしたい。それが神のみこころ、ご計画と信じるようになった。」
その手紙を読んで、前の夫も一緒に教会に行くようになり、洗礼を受けたのですね。そして、再婚したのです。その後、女性は献身して牧師となりました。夫は信徒として、妻の牧師を支えるようになったのです。
イスラエルの回復ということを考える時、神の思いは人間の思いを超えています。
わたしたちは、神のご計画とみむねを推し量ることはできませんが、わたしたちのような小さな人間でさえも、神はご計画をお持ちであるのです。それは救いと平安と祝福の人生を歩み、神と共に生きる信仰の実現であります。
祈り
神の恵みの賜物と招きは取り消されない。
わたしたちの罪と神に対する離反、背反にもかかわらず、イエス・キリストの贖いを信じる信仰により、取り消されることがない、神の恵み、愛、召しのゆえに感謝いたします。