2022年10月9日 聖霊降臨節第19主日礼拝
聖 書 ローマの信徒への手紙11章11~16節
説 教 両方が生きる
喧嘩両成敗という言葉があります。意味を辞書で調べますと、以下のようにありました。「けんかや争いをした者をどの様な理由があろうと双方とも処罰すること。戦国時代の分国法にみられ、江戸時代にも慣習法として残っていた」
分国法というのは、戦国時代に戦国大名が領国内を統治するために制定した法律規範であります。例えば、武田信玄で有名な武田家の甲州法度之次第には、「喧嘩はどの様な理由があろうと処罰する。ただし、喧嘩を仕掛けられても、我慢した者は処罰しない」とあります。この風潮は、江戸時代から受け継がれ、その考え方は、現代に至るまで日本人の精神に流れているように思います。
喧嘩両成敗。争うと双方が罰せられる。誰が罰するのでしょうか。喧嘩した当事者である双方よりも上の力、権威です。審判者です。日本はドイツ、イタリアと同盟して(枢軸国)、アメリカ、イギリス、フランスなどの連合国と戦争しました。終戦は8月15日です。敗れた国が成敗されます。裁かれるのです。誰が裁いたか? 戦勝国です。戦争に勝った国、力があった国が審判者になる。これが現実であります。国家間の戦争では、当事者よりも力があり、権威がある国はないのです。それを作って審判者となったのが、国際連合でした。しかし、常任理事国で拒否権を持った5カ国こそがまことの審判者なのです。アメリカ、ロシア、中国が当事者となると、国際連合でさえも、審判者になりえません。
何を言いたいのかというと、ここでは喧嘩両成敗は、成立しないのです。
もし、まことの権威者、力ある方を想定するとしたら、それは神であります。神は国家を超越し、公平であります。しかし、神は力を放棄されました。日本の憲法9条と同じです。武力を放棄し、怒りと裁きを放棄されたのです。神が人となり、十字架にかかられた。そのことによって罪人を贖われた。それがわたしたちの信じる神です。
本日は、「両方が生きる」と題しました。喧嘩した双方が罰せられるのではなく、生かされる。つまり、無罪とされる。これがテーマです。福音とは、このことをいいます。十字架の意味は、そこにあるのです。
ここでいう双方とは、ユダヤ人と非ユダヤ人つまり異邦人、ユダヤ人以外のすべての民族です。わたしたち日本人も当然入ります。この双方は、別に喧嘩したわけでも戦争をしたわけでもないのですが、とくにユダヤ人は異邦人に対して、敵対的であり、非常な差別意識を持っていました。優越感情をもって、異邦人を軽蔑していたのです。その優越意識は自分たちには、律法がある。神から律法を授けられた。自分たちは、神から特別に扱われている選ばれた民。特別な民族なのだという傲慢な意識でした。
1.ねたみ
11節と12節を読みましょう。
では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。 彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。
彼らの罪とは、ユダヤ人は神によって特別に選ばれ、律法を与えられたにもかかわらず、神のご計画である福音を拒否した罪を言います。福音の中心である救い主イエスを信じることで義とされる。これが神のご計画でした。神の一方的な恩寵、恵みであります。これが神の義でした。しかし、ユダヤ人はなおも神の義よりも、律法を行うという自分の義を求めたのです。その結果、律法とは無縁な異邦人に神の救いがもたらされるという逆転が起こったのです。ユダヤ人以外の世界の人々に神の救いがもたらされたのです。それは今日までそうであります。
だからといって、神はユダヤ人を見捨てられたのか。これはパウロの心中の苦しみでした。
11章1節には、このように記されています。
では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。
退けるとは、見捨てるという意味です。パウロは、自問自答しているのです。11節にも同じように自問自答しています。
では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。
ユダヤ人がつまずいたのは、福音によってです。そして、神から退けられた。
そこからパウロは、自問自答の答えを出します。11節後半
かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。
ねたみを起こさせるとはどういうことでしょうか? 14節にもう一度出てきます。
何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。
ねたみとは、ゼーロスというヘブライ語で、ゼロベタイというと、熱心党という意味であります。そのゼーロスは熱心とか熱情、奮起という意味があるのです。口語訳では、奮起させると訳しています。英語でいえばprovoke、挑発する、 provoke to jealously or rivalry
嫉妬やライバル関係を挑発する、という意味になります。神様も妬む神。
11節
かえって、彼らの罪過によって、救が異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。
14節
どうにかしてわたしの骨肉を奮起させ、彼らの幾人かを救おうと願っている
(私は主、あなたの神、妬む神である。出エジプト記20章5節、申命記4章 24節)
もともと神は自分たちの神である。これがユダヤ人の罪ですね。神を物として占有している。律法もそうです。しかし、神はユダヤ人だけの神ではありません。すべての人間の神であり、創造者、言わば親なのです。その神を自分たちだけの神として占有していて、ユダヤ人以外の民族を恵みの外にいるものとしていたのです。それは、神に対する傲慢であり、罪であります。
パウロの願いは、自分の同胞であるユダヤ人がその罪を悔い改め、神に立ち返ることでありました。
救いは、ユダヤ人から異邦人へもたらされました。ユダヤ人は、異邦人の救いをみて、もともと神は自分たちを選んでくださった。その神の恵みが異邦人へともたらされた。自分たちは律法があると確信していたが、神の計画は福音として示されたのだ。イエス・キリストを通して、神の愛と恵みはすべての人にもたらされるようになった。さあ、神の恵みに帰ろう。もっと、神に熱心になり、異邦人によりも大きな熱情をもって、神を信じていこう。
そのように、ユダヤ人が福音を信じ、救われる。これがパウロの願いであったのです。
2.和解
15節は意味深長ですね。
もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。
和解とは、罪の赦しのために神が提供した特別のはからいを指します。有罪として裁かれる者を無罪宣告して解放することを言います。神の義とは、そのことを言うのです。何ゆえ、罪あるものを無罪として解放するのか。イエス・キリストのゆえであります。神の子イエスが十字架で流された血潮によって、世を贖ってくださった。キリストを信じる者こそ罪なしとされる。これが神のウルトラCなのです。(今はウルトラEなのだそうですが・・・)
神の取って置きの計画、啓示、神秘(ミステリオン)、奥義です。
この和解の御手をユダヤ人は拒否したことにより、異邦人が神と和解された。そこに神のご計画があったのです。しかし、パウロは論点をもう一歩進めます。ユダヤ人は熱情をもって、神に立ち返り、福音を受け入れるようになる。その時、死人の中から生き返るようになるのだと。ユダヤ人が完全に回復する。そのことをパウロは願うのです。
和解とは、だれかが犠牲になることです。日本は無条件降伏をしました。戦争に負けました。その代償は、広島、長崎の原爆であり、沖縄での悲劇であります。そのようにして、日本は無条件降伏をして、ポツダム宣言を受け入れたのです。連合国は勝利したのです。和解が成立したのでしょうか? いいえ、戦争に勝った国が敗れた国を裁いたのです。真の和解ではありません。
神は御子イエス・キリストを十字架に渡すことで、すべての人間に和解を示されたのです。ある意味では、神のほうからの無条件降伏といってもいいでしょう。裁く側の神が御子イエス・キリストの十字架ということを通して裁かれる。
イエス様は法廷で裁かれ、十字架につけられたのです。
これが和解の提示でした。
神が示された和解とは、本来なら喧嘩両成敗される双方が生かされる道なのです。そこにキリストの十字架の意味があるのです。そこに、ユダヤ人も異邦人もいるのです。当然、わたしたち日本人もいるのです。両方が生かされるとは、すべての人がキリストにあっていのちを得、生かされることです。
今年2月にロシアがウクライナに侵攻しました。半年以上が過ぎ、まだ終結しません。しかし、終結は時間の問題でしょう。多くの破壊があり、多数の人命が失われました。
戦争は悲惨です。何ら建設的な意味はありません。今日の説教は、喧嘩両成敗というところから始めましたが、わたしたちの罪を赦し、命を与えられる神を見上げながら、愛と真実をもってわたしたちを導かれる神を見上げましょう。そうすると、喧嘩をする必要も、戦争を始める必要もないのです。むしろ、わたしたちクリスチャンは和解の使者として神は立てられ、用いられるのです。これがわたしたちの信仰です。
祈ります。