聖 書 ローマの信徒への手紙11章1~10節
説 教 残りの者
聖書には、「残りの者」という言葉(思想)があります。この「残りの者」という言葉は、聖書全巻を流れる地下水脈と申しますか、地層中の、地下水の流れる道筋ですね。その地下水の流れのように聖書を貫く考え(思想)であります。その意味は、神を信じる者であっても、神に背く人が出てくる。しかも、それは多数である。しかし、神の働きを担う少数者を神は残される。つまり、神を信じ、従う者は、多数者ではなく少数者なのだ。そういう思想、意味なのです。つまり、信仰していると言いながら、落っこちる人がいる。そういうことです。厳しいですね。
では、そういう意味なら少数者のままでいいのか? とくに日本のクリスチャンは絶対的な少数者である。少数者に神の働きが担われるのなら、伝道しなくてもいいではないか? 何も多数を求めなくてもいいではないか? 聖書に30倍、60倍、100倍の実を結ぶという成長の約束はどうなのか? 成長は必要ないのか?
そんな質問をしたくなります。
今日は三つのポイントで「残りの者」について説教します。第一は、「多数者と少数者」ということです。
1.多数者と少数者
わたしもその問を何度も考えました。少数者と多数者の問題は、聖書はどう考えているのだろう。神のみこころはどこにあるのだろう。そう自問自答したものです。
実を結ぶとは数量ではなく、内容、質のことであると思うのですね。
歴史的には、初代の教会、クリスチャンは迫害の中に生活していました。信仰ゆえに迫害されたのです。その迫害に耐え忍んできました。200年後、ときのローマ帝国はキリスト教を公認しました。迫害がやんだのです。教会はちからを持ってきました。多数となりました。国民のほとんどはクリスチャンとなりました。そうでなければ、今度は迫害されるのです。中世に入ると、権力を持ち、教会は腐敗してきたのです。
このことに関して、聖書から二つの事例をあげることができます。
①ノアの箱舟 大洪水 世の終わりにおける残り者
創世記7章23節で、「主は、地上のすべての生き物を、人をはじめ、家畜、這うもの、空の鳥に至るまで消し去られた。ただノアと、彼と一緒に 箱舟にいたものだけが残った」(聖書協会共同訳)とあります。ノアとその家族が「残された者」であり、救いにあずかった者たちによって、神のご計画が進んで行きます。
ノアの家族はみなその行いがすばらしかったのではなく、神の恵みと選びによって「残された者」であったのです。
②北イスラエル国は、偶像宗教でした。サマリヤ神殿とバール宗教が北イスラエルの支配者層と国民は礼拝、信じていたのです。そこに活躍したのが、有名な預言者エリヤです。エリヤは神に遣わされて、バール宗教を弾劾し、為政者とバール宗教の祭司たちと戦います。道徳が退廃、公義・正義が失われ、社会は混乱、崩壊しかかっていました。クーデター、反乱が頻発に起こり、何度も王朝が交代しました。
本日の聖書の箇所、ローマ11章4~5節を読みましょう。
「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」と告げておられます。 同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。
このところは、列王記上19章18節からの引用です。P566ですね。
国民全体ではない。少数者であっても、エリヤは孤立無援ではないと。
そのほかにも、残りの者の思想は、アブラハムにおいて、モーセの出エジプト記またイザヤやアモスなどの預言書に多数表われます。とくに、イザヤ書40章以下では残りの者が大きな主題となります。バビロン捕囚によって国が滅びましたが、神は残りの者に新しい使命を与えられたのです。国の再建と信仰の復興です。
この信仰者を起こすために、教会は伝道するのです。膝をかがめない信仰者は、はじめから少数者にいるのではないのです。集団が形成されて、そこから少数者が残されるのです。
5節
同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。
口語訳では、
それと同じように、今の時にも、恵みの選びによって残された者がいる。
2.恵みの選び
聖書は、それを選びと言います。選びの中の選びです。イスラエルがそうでした。しかし、選ばれた民は、選ばれたことを放棄することもあるのです。選ばれた意味を理解せず、神の義を求めず、律法の義を求めたのです。
6節は重要ですね。
もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。
わたしたちは神の恵みによって、救われているのです。それはわたしたちが何か偉大なことをしたとか、立派な人間であるからというのではないのです。ただ、キリストを信じるゆえに、義とされ、救いに預かっているのです。ただただ、神の恵みなのです。無条件なのです。
しかし、かたくなにされる人もいる。これが聖書の証言です。それはイスラエルです。
7節
では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです。
なぜ、かたくなにされたのか? それは神の主権です。ローマ書9章18節には、
このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。
イスラエルの多数は、キリストを拒否しました。それは、神が彼らをかたくなにされたからです。
8節から読みましょう。
「神は、彼らに鈍い心、見えない目、聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで」と書いてあるとおりです。 ダビデもまた言っています。「彼らの食卓は、自分たちの罠となり、網となるように。つまずきとなり、罰となるように。 彼らの目はくらんで見えなくなるように。彼らの背をいつも曲げておいてください。」
ここは、申命記29章3節、イザヤ書29章10節からの引用です。9節以下は詩編69編23~24節からの引用でもあります。
旧約聖書を引用しつつ、パウロはイスラエルの残りの者にキリストの福音が委ねられたことを主張するのです。
現在に至るまで、イスラエルの多くの人はかたくなにされています。神の無条件の恵みではなく、律法による義を求め、キリストを拒否しているのです。
神の恵みは、わたしたち異邦人に宣べ伝えられました。世界の各地に、キリストの福音が伝えられたのです。
3.わたしたちの信仰
わたしたちは、イスラエルから見れば異邦人であります。神の恵みの外にいたものであります。選ばれたのは、イスラエル人であり、それ以外は恵みの外にいた。これが律法なのです。
しかし、キリストの十字架はすべての人を恵みの内に入れてくださった。これが福音であります。キリストの十字架の贖いを信じることで神はわたしたちを義とし、救いにあずかるようにしてくださったのです。
わたしたちは残りの者であること。神によって残された者であること。
少数者であることを恐れない。残りの者にこそ神の恵みがあり、神は使命を与えておられるのです。
少数者であることを恐れない。むしろ、そこに誇りと神の恵みを覚えて信仰を全うしていくように努めましょう。残りのものとしての自覚と残されたものとして、神の特別の選びの恵みを与えられたことを感謝いたしましょう。