2022年6月5日 聖霊降臨節第1主日 ペンテコステ礼拝

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聖 書  ヨハネによる福音書7章32~39節

説 教  聖霊をいただく

 本日はペンテコステ礼拝です。ペンテコステとは、ギリシア語で50日という意味です。 ペンテは5です。ペンタックスというカメラメーカーがありますね。ペンタゴンは、アメリカ合衆国国防省の建物のことを言います。五角形という意味です。五稜郭は、函館にありますね。これもペンタゴンですね。コステは10です。それでペンテコステとは、50です。

 何から50日か。イエス様の復活から50日ということです。

1.ペンテコステはイエス様の約束の成就

 ここには、預言がありました。イエス様の約束です。2つあります。

復活されたイエス様は、弟子たちに現れて聖霊が降臨されることを予告されたのです。

使徒言行録1章3節から

イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」

8節9節

あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたし の証人となる。

こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。

そして、昇天されます。40日目です。それから10日たち、まさしくイエス様の予告通りに聖霊が降臨されたのです。

使徒言行録2章1~4節

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 これが聖霊降臨日ペンテコステの出来事です。その後、聖霊に満たされた弟子たちは、エルサレムの街に出て行き、路傍伝道をするのです。ペトロが説教するのですね。37節から

人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物とし て聖霊を受けます。」

ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。

 聖霊の満たされた弟子たちは、ちからを受けてイエス様の十字架の贖いと甦りを力強く宣べ伝え、悔い改めを迫るのです。そうして3千人のユダヤ人が悔い改め、洗礼を受けたのです。

2.ペンテコステの霊は力の霊であり、イエス様の霊

 2つ目は、ヨハネによる福音書にイエス様の預言があります。14章15節以下ですね。

ここには聖霊を与える約束をイエス様はされます。

 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。

この方は、真理の霊である。」

26節

「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせ てくださる」

 弁護者とは、パラクレートス(ギリシア語です)、「共にいるもの」「そばにいるもの」という意味であり、まさしくイムマヌエルの神様ということです。共におられ、寄り添い、ちからを与え、励まし、慰めを与えてくださるお方です。

3.聖霊は、生ける水

 本日の聖書、ヨハネによる福音書7章37節から。

 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。

祭りとは仮庵の祭ですね。10節以降にあります。仮庵祭とは、出エジプト記にある神の救いの出来事をさします。400年の間エジプトに捕らわれの中にあったイスラエルの民を神様はモーセを指導者として乳と蜜の流れるカナンの地に解放された出来事を記念する祭ですね。荒れ野の40年。天幕に住み、移動しました。テント生活です。

この間、十戒と律法の授与、幕屋建設の指示という旧約聖書で中心的な記事があります。

この荒れ野の40年を忘れることなく、イスラエルの人々は代々に渡ってこの祭りを守ってきたのです。その規定がレビ記23章です。とくに、仮庵祭は34~43節です。

仮庵祭の儀式では、水が重要な役割を果たします。祭司が壷をもって、シロアムの池まで行き、水を汲んで神殿まで運び、祭壇に水を注ぐのです。その間、民は祭司に付き従い、イザヤ書12章3節

「あなたたちは喜びのうちに、救いの泉から水を汲む」を詠唱します。そして、詩編103~108編のハレルヤが笛の伴奏とレビ人の聖歌隊によって歌われます。この行列がおもおもしく、かつ盛大に神殿とシロアムの池を往復するのです。それは、荒れ野において生ける水を慕い求める祈り、エジプトの捕らわれから解放してくださった神への讃美であります。

今、イエス様はこの仮庵祭の最後のときに、民に向かって言われます。

ヨハネ7章37節以下

祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」  

イエス様は旧約の預言の完成者として来られています。イスラエルの民が出エジプトを経験して、神の救いの現実を体験し、それを記録にとどめ、祭りとして毎年、神の救いの出来事を想起していました。しかし、イエス様はキリストとして、モーセに勝る神の子として現われ、すべての人に神の救いの恵みを現実として表されたのです。

ヨハネ4章にサマリアの女のエピソードが語られました。14、15節には

わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内

で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る

とあります。いま、7章に来て、イエス様は再度、生ける水のことで言われます。

 イエス様は、いま、仮庵の祭りにおいて、モーセの出エジプトにおいて啓示された救いの恵みをイスラエルに思い出させ、ご自身こそが生けるいのちの水であると示されたのです。

 わたしたちは根源的に渇くものです。渇かない人はいません。のどが渇き、水を求めます。人のからだは水を求めるのです。同時に、わたしたちの根源的なもの、つまり存在そのものの渇きがあると聖書は記しています。それを霊の渇きということができます。魂と霊における渇きです。それを満たすものは何でしょうか? 人は、物質的なものを求めます。金銭であり、物欲ですね。ある人はギャンブル、別の人はアルコール、物欲、刺激を求めます。その刺激はより強いものを求めるようになります。並みの刺激では満足できなくなるのです。いわゆる、アディクションになります。嗜癖ですね。満たされることはありません。

それは、こころ中にある空洞と言えるでしょう。底知れない穴ですね。わたしたちはそれを物で満たそうとあくせくしていた。こころと霊魂の渇き。何によって満たしますか? 聖書は、聖霊による満たしだと記しているのです。

別の表現でいえば、真理がベールで被われていた。そのベールは自分の力では取り除くことはできません。イエス様だけが取り除いてくださるのです。主に向き直れば、その覆いは取り除かれます。真理といのちがイエス様によって明らかに示され、見ることができるのです。そして、真理を知り、体験し、与えられるのです。それは神のいのち、そのものです。

神のいのちとは、神の霊です。聖霊ですね。心で満たすのです。霊には霊でしか満たされるものはありません。イエス様は、そのために十字架にかかり、わたしたちの罪を赦し、贖ってくださったのです。わたしたちは神のものです。神様は、わたしたちのこころの空洞を聖霊の生ける水で満たそうとされるのです。そこに命があります。

 信仰でもって、神に満たしていただくのです。わたしにその生ける水をください。そうイエス様に求めるだけでよいのです。

 わたしは渇いています。あなたの生ける水で満たし、川のように溢れ、流れるようにしてください。そう祈りましょう。

 そこに聖霊の生ける霊が注いでくださるのです。ペンテコステとは、聖霊の注ぎが与えられ、ちからを受けることを示しているのです。

 それは世に打ち勝つ信仰となり、平安、喜び、感謝、愛へと導くのです。それを信じ、感謝して聖霊をいただきましょう。神はキリストのゆえに与えてくださるのです。

 ハレルヤ、アーメン。祈りましょう。