聖 書 ローマの信徒への手紙8章31~39節
説 教 引き離すことができない愛と信仰
本日は久しぶりに対面の礼拝を再開しました。1月16日、酒田暁星教会の合田やす子牧師と講壇交換でした。おおよそ3か月ぶりです。15週もの間、対面なしで、YouTube動画での配信でした。昨年度2021年度は、44%対面なしでした。
本当に久しぶりです。
2011年3月11日の東日本大震災が起こりました。それでも教会は休むことなく礼拝を続けてきたのです。しかし、新型コロナウイルス感染という疫病にあって、教会は残念ながら休会となりました。多くの教会、日本だけでなく、世界の教会もまた同じです。
さて本日は、ローマの信徒への手紙8章31~39節から説教しますが、この聖書の箇所から本日と次週で2回にわたって説教いたします。
35節を読みましょう。
だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。
39節を読みましょう。
高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
35節は、キリストの愛、39節は、神の愛となっていますね。
教会での結婚式では、死が二人を引き離すまでは、結婚を添い遂げることを誓約します。結婚は、愛が基礎にあることは言うまでもありません。ある意味では、死さえもが二人の愛を引き離すことはできないのです。
キリストと教会の関係もこれと同じであります。旧約聖書では神とイスラエルの民は結婚にたとえられています。夫である神と妻であるイスラエルという関係です。ちなみに、エレミヤ書では出エジプトのあとの荒れ野の40年を神とイスラエルの蜜月時代とまで言っています。(2章)
同じように、新約に生きるわたしたちは、キリストと教会が花婿と花嫁の関係であるというのです。教会ですから、それはわたしたちです。神を信じ、キリストによって贖われたわたしたちはキリストの花嫁なのです。花婿なるキリストを待ち望む信仰生活。これがわたしたちの教会生活なのです。Ⅱコリント11:2、エフェソ5:24、黙示録22:20
わたちたちが毎週日曜日にささげる礼拝は、「花婿なるキリスト、来たりませ。早くおいで下さい」。その信仰と期待、待ち望みの表明です。それが信仰告白、使徒信条の告白として表されるのです。
日本は、仏教や神道という伝統宗教が根強く、21世紀の現在でもまだ日本人の精神と文化を支配し、大きな影響力を持っています。家の宗教という問題がありますね。結婚した相手の家、親のことですが、その家の宗教と言う問題があります。仏教とか新道を指します。
今日は、この家の宗教という問題は取り上げません。以前には説教で取り上げたことがあろうかと思います。別の観点から家の宗教を取り上げます。
今日の聖書を読んでいて、クリスチャンの家庭で二つの型(タイプ)がある。そう感じました。
クリスチャンの家庭にはルツ型の家庭がある。そう思います。旧約聖書のルツ記ですね。ルツさんは、異邦人です。ユダヤ人ではなく、敵対し差別された民族のモアブ人でした。ユダヤ人のナオミさんの息子のお嫁さんです。その息子は亡くなるのですが、ナオミさんは嫁のルツさんに家を離れて、実家に帰りなさい。そう言うのですが、ルツさんは帰りません。「あなたの神は、わたしの神です。わたしはあなたに仕えます」 そういうのですね。嫁姑の素晴らしい関係です。家庭円満。夫婦の愛、親子の愛が伝わってきます。ここには、「わが家と我は主に仕えん」という信仰の家庭があります。ヨシュア記24章15節ですね。
教会のクリスチャン家庭でもそういう方がおられますね。
もう一つは、イゼベル型があります。列王記上16,18,19、21章 列王記下9章に記されています。預言者エリアの時代です。
イゼベルは、イスラエルの王アハブの妻です。シドン人です。彼女は、主なる神様ではなく、バアル宗教、バアルと言う偶像の信者なのです。王の妃の権威をもって、権力者となるのです。しかも、夫を尻に敷いていく。イスラエルの預言者を殺し、バアルとアシェラの預言者の勢力を強くするのです。イスラエルの国がバアル宗教に乗っ取られたのです。
結婚は本来、個人と個人の合意によって成立するのですが、そこに親、親族がかかわってきます。2つのクリスチャン家庭
こういう家庭があります。男女が出会い、双方の意思でもって結婚します。夫の家庭がたまたまキリスト者の家庭だったのですね。夫の両親とは同居していないのですが、お姑さんが熱心なクリスチャンで、ご一家で皆さんがそろって日曜日には教会に通われていたのです。夫がクリスチャンであることは承知していました。教会で挙式したのです。女性は、クリスチャンではなかったのですが、姑さんの熱心さとやさしさで一緒に教会に行くようになり、しばらくすると洗礼を受けました。もちろん、夫の愛情とやさしさがありました。こういう事例は多くあります。ルツ型の家庭と言えるでしょう。
しかし、違う事例もまた沢山見ていました。熱心なキリスト者の家庭で育った男性と結婚した女性。夫はクリスチャンです。姑さんが熱心で女性を教会に誘うのです。姑さんは、教会の皆さんから愛され、尊敬されていました。その姑の熱心さで、一緒に教会に行き、勧められるまま、洗礼を受けるのです。はた目には、素晴らしいクリスチャン家庭と思われたのです。しかし、姑さんは支配的で、あれこれ注文を付けるのですね。価値観、育ちの違いもあったかもしれません。お嫁さんはプレッシャーを感じるようになります。嫁姑の仲が悪くなります。その中に立つのが夫です。忍耐の生活です。夫も見て見ぬ振りです。歳をとってきて、姑さんが弱られてきて、立場が逆転するのです。今度は、お嫁さんが支配的になってくる。
姑さんを高齢者ホームに入れるようになります。しかし、一度も見舞いに行かない。亡くなっても教会に知らせず、あろうことか仏教で葬式を行った。姑に対する復讐です。こういう家庭を何件も知っています。イゼベル型といいますか、キリスト者の家庭の信仰が別の宗教に乗っ取られたのです。
教会には、神とキリストの愛から引き離そうとする力がいつも働いています。35節には、だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。
とあります。そこには
艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸か、危険か、剣かとあります。
Ⅱコリント 11章26~27節にも同じ内容が記されています。
現代は、そういう迫害や苦難よりも通俗的なこと、人間関係におけるストレスや心理的な抑圧などによる対立が多いですね。憎しみ、反感。
またしても、サタンです。嫉妬深いサタンは、虎視眈々と狙っているのです。
いさかい、ひと悶着を冒させる。人間関係において。不信感を植え付けます。相手を攻撃する知恵を与えるのです。誹謗中傷ですね。赦しとかやさしさではなく、詰問し、叱咤し、欠点を洗いざらいぶちまけ、容赦なく相手をやっつけようとたくらむのです。
しかし、キリスト教徒であるということは、神を信じることは愛によって生きることを志すことを指しています。そして、徳を建てること、感謝しあうこと、他人の世話をするということ、弱い人の立場、疎外されているひとたちのことをいたわり、面倒みること。
誰でもが神の被造物として助け合うこと、共に生きるという理想に生きること。
教会はそういうところから出発しました。主イエス様の十字架はそれを象徴するのです。
わたしたちとキリストの愛は本物でしょうか?
わたしたちと神の愛は本物でしょうか?
少しのことで、あるいは人間関係、家族、家のことで引き離す力が働きます。
意地悪なこころ、足を引っ張ろうとする力、躓くことが満ちています。
しかし、それによってすぐに壊れてしまいがちな愛と信仰ではない。引き離される愛と信仰ではない。キリストの十字架によって贖いだされた神の恵みと愛を確かなものとして、信じて進みたいと思います。そして、世の光、地の塩としての役割を果たしえる教会として共に築きあう群れとして神の力をいただきましょう。
神が共にいて、力を与えてくださるのです。神が味方なのです。
何か問題が起こった時、人間関係で躓いた時、そういう時のためにヒントがあります。
やさしさ、暖かなまなざし、赦すこころ、寛容さ、親切、柔和。この心でもって、相手を見る。裁きの目ではなく、神から与えられる目で見るのです。
家庭は変わります。相手は変わる。あなたも変わる。わたしが変わる。
そこにキリストがおられるのです。