2022年4月24日「怒りの器から憐みの器へ」

2022年4月24日「怒りの器から憐みの器へ」

説教メッセージ


「神の憐れみの器」
聖 書  マタイによる福音書11章28節

 みなさまおはようございます。

伝道師の関戸直子と申します。今年から、潮先生が酒田暁星教会を兼務されることになったということで、今年度、わたしが仙台青葉荘教会から、酒田暁星教会の現場に派遣され、礼拝を担当させていただくことになりました。月に一回、潮先生が酒田に行かれるときには、わたしが仙台青葉荘教会の礼拝説教をさせていただくことになります。どうぞよろしくお願いします。

本日は自己紹介も兼ねまして、証しを含めた説教をさせていただきます。わたしは、長野県上田市というところで生まれ育ちました。高校卒業後、東京の専門学校に入りましたが、その後22歳で結婚し、2男1女をもうけました。現在は孫が8人いるおばあちゃんであります。

今日のローマの信徒への手紙9章19節から証をさせていただきます。

わたしは元来頑張り屋な性格で、スケジュール表には空いている日がないくらい、たくさんいろんなことをしていたのですが、夫の父が倒れたり、教会堂の建設がはじまったり、性格的にもネガティブだったりと、いろいろなことが重なって、エネルギーが極度にさがってしまい、30歳の時にうつ病を発症してしまいました。

今日選ばせていただきました聖書の箇所は、10年間うつ病で苦しんだとき、与えられた言葉で、ここは私のうつ病が癒されるきっかけとなったみ言葉であります

このローマの信徒への手紙は「歴史を変えた手紙」といっていいほど、重要な意味を持った書簡です。かの宗教改革者ルターも、この手紙から大きな悟りを得て、宗教改革を起こしました。まさにこれは偉大な書簡で、それは霊的であり、素晴らしいのですが、私はこの手紙はほかの意味でも素晴らしいとおもいます。それは、世界の片隅の日本の、小さな田舎の町で、やっと洗礼を受けて1年たったか経たないかくらいの、しかもうつ病にかかってほとんど 聖書が読めるような状態でない私が、意味がよくわからないままで読んだとしても、このローマの信徒への手紙の言葉は、私の人生を根底からひっくりかえしてくれたからです。

これは聖書のみ言葉は病んだ者の魂の奥底にまで届いて、癒しの御業を起こしてくれる力を持つ言葉であるという証拠ではないでしょうか。

さて、ここに「器」という言葉が出てきます。とあります。9章21節をお読みします。「焼き物師は、同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか」とあります。聖書は私たち人間を粘土で作った「器」という言葉で表しています。

旧約聖書エレミヤ書18:1~にそのことが書いてあります。

エレミヤは神に言われて焼き物師の家に行きます。そこでいろんな器を作っているのを眺めるのです。すると焼き物師は気に入らない器を壊して、また新しい器を作りなおしています。それを見てエレミヤは悟りました。

神はご自分の目的をもって、粘土の器を自由に作り直すように、ご自分の目的をもって私たちという器をつくり、また壊すことがわかったようです。

器を作る主権はあくまでも神にあるのであって、人間は自分で自分をつくったのではないのです。

わたしは、うつ病を発症して倒れてから、半年近く布団から出れませんでした。それはまるで私という器が壊されてもう一度土の中に戻され、真っ暗闇の中に閉じ込められているような感じがありました。

布団からは出れるようになっても、家の外へは出れないという状態は3年つづきました。寝たきりの時は、夫が私の口におかゆを運んで食べさせてくれ、指一本動かせない状態でした。神の手によって壊された器、それはまさにうつ病の時の私のようでありました。

うつ病というのは、ほんとになってみなければわからない病で、外がわからみたら、何も変わらないように見えます。でも、何かすることはできないので、ともすれば怠けている、甘えていると思われてしまいがちです。しかし、本人は説明してもわかってもらえないような、苦しみと闇のなかに落とされている感じがしているのです。

9:19~20にこうあります

「『だれが、神のみ心に逆らうことができようか。』ああ、人よ。神に口答えするとは、あなたは何者か。つくられたものが造ったものに『どうして私をこのように造ったのか』といえるでしょうか。」

我々は神に向かって「あなたはなぜ、私をこのような者にしたのですか」という事はできない。と書いてあります。

しかし私は神に心から嘆いて訴えていました。「あなたはなぜ、私をこんなひどい目にあわせるのですか。」と。

わたしは、自分がなぜうつ病になったのかずっと考えておりました。

29歳のクリスマスに洗礼を受け、これからは本当に神さまのために生

きていこうと、喜びと感謝の毎日だったはずでした。でも、その一年

後にたおれたのです。

「あんなに一生懸命、神のため、人のために尽くしてきた私が倒れ、何もしないでいるあの人が元気で楽しんでいる。ゆるせません!」と、 これがわたしの正直な気持ちでした。どうしたら、うつが治るのだろうと、毎日毎日そのことばかり考えていました。

しかしある時、ようやく聖書が読めるくらいに回復した時に、このみ言葉と出会いました。

22節にはこうあります。「神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを、寛大な心で耐え忍ばれた。」

 怒りの器とはなんでしょうか?

神を信じることのない民のことです。そこに神の怒りが盛られるのです。

 憐みの器とはなんでしょうか?

神を信じ受け入れた民のことです。神はそこに憐みを盛り付けます。

私自身はすでに信じて、洗礼をうけ、憐みの器になっておりました。しかし、うつ病を患って気づいたのです。それは私の中に、古い自己中心な考え方や、まだ解決していない心の問題がまだまだ多くあったからだと。それが罪として重なり合い、神を理解することが難しかったのでしょう。

たとえば、ユダヤ人というのは、もともと神に対する熱心さがありましたが、しかしそれは正しい熱心さではありませんでした。そのことが、この後の10章に書かれています。

ユダヤ人はキリストへの信仰によって救われると考えたのではなく、律法を守ること、立派な行いをすることによって、神に選ばれている、だから我々は救われていると勘違いをしていたのであります。

私も、ものすごく熱心に頑張る人でした。でもそれは、正しい熱心さではなかったのです。わたしはいつも自分は正しく、立派な人にならなければと思って生きていました。教会の事も仕事の事も、家庭の事も常に休む暇もなく働きました。

何もない日、何もしていない時間は罪責感が自分を襲います。

「自分には価値がない」というような気持ちが込みあがり、クリスチャンになったら、それが余計にパワーアップしてしまいました。

救われたよろこびと感謝はやがて消えていき、あとはもっといいキリスト者になるために一生懸命頑張って走るようになっていったのです。そして、頑張りすぎて、ついにうつ病になってしまいました。

では神は怒りの器をそのまま滅ぼすのでしょうか?

いいえ、そうではないと書かれています。怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれた。とあります。

神は、神を信じない人々、まだ神を知らずに偶像を拝んでいる人々に対しても、赦しを与え、救いの道をキリストにおいて備えています。世界中の人々を、神を信じる憐みの器にしようと、神は耐え忍ばれているのです。

あるとき、牧師婦人が、友人と一緒に、寝ている私を訪ねてきてくれました。私は当時、誰とも会いたくなかったのですが、そのときだけは不思議と戸をあけて、彼女たちを家にいれました。神様が働いてくださったのだと思います。彼女たちは寝ている私の枕もとで賛美を歌ってくれました。その賛美の歌に心が明るくなり、目の前に光が射したのを覚えています。それからの私は、だんだんと聖書が読めるようになってきました。

み言葉を読んだ時、今は、こんなに辛い、苦しい、でも神はそんなわたしに「憐みの器として栄光を与えようと準備しておられるのだ。」ということがわかりました。私という器に、神の憐みが盛られ、神の栄光が盛られる器となるのだ。という希望と喜びが生まれ、その時から寝たきりのわたしの心がたちあがったのです。

うつで寝込んでいるとき、教会の方々は私のためにお祈りしてくださっていました。ある人は訪問して、玄関先で祈ってくれました。ある人は、玄関にそっと差し入れを置いておいてくれました。牧師は癒しのみ言葉の書かれた色紙を届けて祈ってくれました。夫は子どもたちを連れて教会に行ってくれました。そのときはまだクリスチャンではなかったのにです。

教会の方々は、他者の苦しみをまるで、自分の苦しみかのように感じて、憐みをずっと私に注いでくださっていたのです。それは、わたしがさらに憐み豊かな器に成長するように、神様も周りの人も忍耐をもって待っていてくださったのだと思います。それは実に長い年月がかかりました。

うつ病になったおかげで、「だめであっても、こんなに愛されている」「神のいつくしみはいつも私と共にある」という事がわかってきました。

人間は皆、神様の作品。土の器であります。ひとりひとりみんな違う形に造られました。でも、そこには汚れた罪がいまでもたくさん残っています。しかし神様は、そんなよごれた器をみ言葉で毎日毎日、ごしごしと洗ってくださるのです。

毎日みことばにふれ、祈り、毎週教会で礼拝を捧げるという信仰生活をつづけるうちに、神様が作られた器はすこしづつ癒され清められていくのです。それは一気にくるっと変わるわけではなく、本当にすこしづつです。まるで季節が変わるようにうっすらです。気が付いたら季節が変わっていたというような速度で変わっていくのですね。

さいごに25,26節を読ませていただきます。旧約聖書のホセア書のみ言葉です。

「わたしは自分の民でないものを私の民と呼び、愛されなかった者を、愛されたものと呼ぶ。『あなたたちは私の民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子と呼ばれる。」

失望して、自分は見捨てられたと勘違いをしてはいけません。あなたは神選ばれた尊い選びの民なのです。

そして、人間個人だけでなく、教会自体も欠けの多い器であるといえるでしょう。

しかしだからこそ、足りないものがそのままで受け入れられる場所、それが教会なのです。そこにはイエス様の憐みの盛られています。

弱さを抱えた人、お年寄り、赤ちゃん、子ども、貧しさにあえぎ、精神的に弱く病んで、体が病気でいる人、あるいは、コミュニケーションがうまく取れない人もいる。そういう方々も、弱さをかかえたまま、礼拝できる共同体としての器、それが教会であります。

その一人一人をつないでくださっているのは主イエス・キリストなのです。ここにいる一人一人のために、十字架で命を捨ててくださり、私の罪の身代わりとなってくださった。そのおかげで、罪が赦され、神様の愛の中で憐みの器とされているのがわたしたちなのです。

神はここにいるひとりひとりに、すばらしい人生を用意しておられます。いまはわからなくても、私があの指一本動かせなかったうつの時代から、立ち上がることができ、やがて神学校に入り、伝道師になることができました。それはすでに準備されていた神様のあわれみでありました。

どんな人間、どのような器であっても、神様は必ず憐みを備えていてくださいます。

祈りをささげます。