2022年4月10日 受難節第6主日 受難週礼拝

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聖 書  マタイによる福音書21章18~22節

説 教  十字架の死を前にして

 全世界の教会は、3月2日の水曜日からレントに入りました。主イエス様の受難を覚えて克己の日々を送る。古来そういう習慣がありました。ある人は、コーヒーを飲まないとか朝ごはんを食べないとか。聖書と祈り、断食、慈善をもって主の苦しみを寄り添っていく。そういう信仰ですね。

本日から受難週に入ります。14日木曜日は、イエス様が弟子たちの足を洗われた洗足の木曜日です。最後の晩餐の日でもあります。金曜日は受難日、十字架に架けられ死に、墓に葬られます。

 さて、今朝の聖書ですが、主イエス様一行がエルサレムに向かわれたときの記事であります。この21章エルサレム入城から受難の1週間が始まるのですね。前の段落は、エルサレム神殿から商人を追い出して、「宮清め」をされました。その時は、エルサレムから3キロほど離れたベタニアに泊られたとあります。一夜の眠りを守られて、朝になり、エルサレムに再度向かわれたのであります。

  

 18節以下をもう一度お読みします。

朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。     

   

 いちじくが稔るのは、夏から秋ですね。イエス様の受難の時期は、春分から2週間前後ですから、まだ葉っぱもありません。暖かくなって葉が伸び、やがて徐々に実が成長するのです。教会の牧師館の通りにいちじくがありますが、まだ葉もついていません。

いくらイエス様であっても、実が熟す時期ではないのに、実を期待し、実もなっていないために、いちじくを呪うのは、厳しいのではないか。今ふうに申しますと、八つ当たりですね。「切れた」ということでしょうか。そういう印象を持ちます。

 

次に呪いについて見ますと、マタイでは19節

道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。

呪いの言葉をかけると、いちじくの木がたちまち枯れたというのです。これは呪いの言葉といい、たちまち枯れたといい、これでは魔法ですね。イエス様の権威、ちからの現われ。

 聖書の記事は、わたしたちに何を言おうとしているのでしょうか。福音書は、ここで何をメッセージとして伝えたかったのでしょうか? それを共に考えてみたいと思います。

1.愛の憤り

イエス様は、愛の主であり、柔和で謙遜な方である。これがわたしたちの第一のイエス様のイメージです。そのイエス様が憤りを覚えられ、裁きの言葉、呪いの言葉を吐くように語られた。そして、実際にいちじくの木は枯れたのです。

これだけを見ていると、イエス様は恐い方かなと思います。

先ほども申しましたが、21章から受難週が始まります。棕櫚の聖日と呼ばれています。

ヨハネによる福音書12章12節

その翌日、祭にきていた大ぜいの群衆は、イエスがエルサレムにこられると聞いて、しゅろの枝を手にとり、迎えに出て行った。そして叫んだ、「ホサナ、主の御名によってきたる者に祝福あれ、イスラエルの王に」(口語訳です。新共同訳は「なつめやしの枝」と訳されています)

 これは旧約の預言者ゼカリヤ9章9節の預言の言葉です。まさにイエス様はメシアとしてエルサレムに入られたのです。

 こうして群衆に迎えられたイエス様ですが、神殿の境内に入られた時、そこには信仰と祈りのない喧騒な神の宮でした。そこに売り買いしていた商人たちを追い出されたのです。13節

 「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」

 

 この憤り、怒りですね。その後、いったんベタニアに退かれ、泊まられるのです。17節ですね。その翌日の出来事が、イチジクの木のできごとです。

 

寛容であり、憐れみ深いイエス様、人の育つことを愛と優しさ、忍耐をもって見守っておられるイエス様です。そのイエス様が、憤り、腹立ち、不機嫌、攻撃的な態度と激した言葉をとられたのです。

2.愛の行方-十字架

 いちじくの木が枯れた後に、権威についての問答があります。23節以下です。

イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威によって、これらのことをするのか? だれがその権威を与えたのか」

 「これらのことをするのか」という「これらのこと」とは、神殿の商人を追い出したということでしょう。そして、いちじくの木を枯らしたことでもあります。

 いちじくの木は、エルサレムの人々、イスラエルの人々を意味します。そのいちじくが枯れたということは、エルサレムの滅びを意味するのです。ルカ19章でエルサレム神殿の破壊を予言されました。そのことをいちじくの木を通して示されたのです。

 滅びと破壊において、何の権威があるのか。これがユダヤ人たちの質問でした。これに対して、イエス様は、そして教会は、神からの権威であると主張するのです。

 しかし、実際はどうでしょうか? イエス様は、裁き主として立っておられません。裁きの権威を持っておられるにもかかわらず、裁きではなく、十字架を選ばれるのです。これもまた権威といえば権威でしょう。  

 十字架の死は、特別の使命でもあるのです。 

 イエス様は自分の力を示すよりも、無力であることを選ばれたのです。力なきものとして、力なきもののままに、十字架にかかり死なれたのです。

  そこにイエス様が愛の方、寛容で慈愛の方であることを最期まで貫かれたのです。

3.愛の忍耐

ルカによる福音書13章6節以下には、「実のならないいちじくのたとえ」の記事があります。こういう内容です。

そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。  そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』  園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」    

ここでは、ぶどう園にいちじくの木が植えられたのです。異質の樹木が植えられたのです。3年間実がなりませんでした。切り捨ててしまおう。そう主人は思ったのです。しかし、園丁は、もう少し待ちましょうと訴えます。マタイとマルコのいちじくの木とは、対応がおよそ違います。   

 

いちじくとは、誰か。イスラエルという人もいます。ファリサイ派、祭司長たち。葉が茂っているが実がないということは、外観だけ。見せかけの信仰ということです。形は整っているが内実がないということです。

しかし、聖書は他人事として読むことではないのです。本当は、わたしたちなのです。聖書の言葉は、この「わたし」に語りかけられた。そう受けとめて読まないと真の味わいはありません。

実らないいちじくは、「わたし」と思って読むことが大切です。そう思うと、切り捨てられないでいるのは、神の憐れみだと感じるのです。むしろ、実が熟するのを待っておられる。忍耐と寛容をもって、待っておられる。本来切り捨てられ、裁かれるべき稔らないいちじくは「わたし」だ。そう読むと、神の憐れみ、神の愛、イエス様の十字架の本当の意味が理解できるのです。「あの人」「この人」ではないのです。わたしなのだということです。

そこに神の忍耐があります。育つのを待ってくださる。実りを待ってくださる。その忍耐ですね。わたしたちはそのように待たれたのです。実がなるのを待ってくださるのです。愛の神。これがわたしたちの救い主なる神だと信じるのです。 

キリストは執り成してくださいます。神はキリストの十字架のゆえに裁きを放棄された。キリストご自身が裁きを受けられたからです。ここに福音があります。 

守られていることを感謝し、また神の恵みを無にせずに、成熟を求めて進みましょう。