聖 書 出エジプト記4章1~17節
説 教 なだめすかされて
本日の説教題は、「なだめすかされて」です。「なだめすかす」という言葉があります。
漢字で書くと、こうなります。「宥め賺す」。宥めるという感じは、時々見かけますね。「賺す」という漢字は、ほとんど書くことはありません。賺す。難しい字です。
宥めるとは、怒りや不満などをやわらげ静める。事が荒だたないようにとりなす。
賺すは、機嫌をとるということですね。
宥めすかすとは、機嫌をとって、相手の気持ちをやわらげる。また、相手の心をやわらげて、こちらの都合のいいようにしむけること。
本日の聖書、神はモーセに現れました。2章、3章と共に読み進めてきました。この間、
神がモーセに現れ、エジプトに400年間とどまり、今や奴隷状態にあるイスラエルの民を救い、父と蜜の流れる地に導びこうとされます。そのために神はモーセを選び、解放者として派遣されようとするのです。2章と3章ではモーセの召命と派遣であり、派遣される神とはどなたか。神の啓示、神のお名前が明らかにされます。解放と救いは同じ意味ですが、その救いの目的は、神を礼拝すること。祭壇を築く行為。そして、神を礼拝する民の形成。これが出エジプト記のテーマでもあると確信します。そのための十戒、律法、その間にある過越しという歴史的事実です。それは贖いということです。以上は、前回(2月27日「はじめの一歩」)の説教の内容でした。
4章にきてモーセは、神の懇切丁寧な派遣のことばにもかかわらず、なお躊躇して決断できません。本日の説教題は、「なだめすかされて」です。宥め賺すの意味を先ほど申しました。誰が宥め賺し、誰が宥め賺されるのか? 宥め賺すのは、神。宥め賺されるのが人間。つまりモーセです。神が選び、派遣しようと計画され、ご自身を顕され、あまつさえ、神のお名前を啓示された神。神ご自身がじきじきに宥め賺されても、モーセは肯んじない。いやです、ダメです、無理です、できません。そう神の派遣を断るのです。
そこで、三つのポイントをもって説教いたします。
1.モーセの性格
モーセは煮え切らない性格ですね。「熱くか冷たいかであってほしい」 イエス様の言葉ですが、モーセは熱くも冷たくもない。決断力に欠けています。優柔不断です。
それどころか、1節「モーセは逆らって」とあるように、神様のことばと促しに素直に応じようとしないのです。そこで、今まで神は言葉をもって説得されましたが、ここにきて、具体的な三つのしるしを与えられるのです。
第一は杖です。2節「あなたが手に持っているものは何か」と言われた。彼が「杖です」と答えると、神は「それを地面に投げよ」と言われ。モーセが杖を地面に投げると、杖は蛇になったのです。杖とは、羊飼いの杖です。モーセは羊を飼って、燃える柴が燃え尽きないのを不思議に思って山に登り、神の声を聴き、神と語り合ったのですね。
第二は6節「あなたの手をふところに入れなさい」 その通りにすると、モーセの「手は重い皮膚病にかかり、雪のように白くなった」とあります。恐れ、神の裁き。
第三は、9節 血ですね。ナイル川から汲んできた水が地面で血に変わるのですね。
この神の促しにもかかわらず、なおモーセは辞退の思いを訴えます。
10節「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです」。
神の言葉、11節
このやりとりにもかかわらず、モーセは煮え切れないのです。
13節 強い辞退です。「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけて遣わしてください」
14節 神の怒りです。「いい加減にしろ。これだけ言っているのに。どうして言うことを聞かないんだ」 そのような神様の憤りを感じますね。
じれったいモーセですね。うだうだと言い訳をして、前に進まない。慎重なのでしょうか。臆病、小心、自分自身に対して自信がない。自己肯定感がない。そういうモーセが見えますね。
再度、神はモーセに働きかけられます。「分かったか。さあ、行きなさい。わたし、神であるわたしがあなたを遣わすのだ」 そのように神はモーセを促されるのです。「覚悟はできたか。さあ、行きなさい」ですね。
それでもモーセは「はい、分かりました。あなたの力と助けをいただいて、わたしは出かけましょう」 そう言って、出かけるかというと、そうでもない。それがないのですね。
神が人(モーセ)になだめすかして説得されるのです。
神様は忍耐強いお方ですね。そこまでして、人を用いようとされる。神のご計画を実現するために用いようとされるのです。
そこまでする価値がモーセにあるのだろうか? 神様は、もっと別の人を用いることができたのではないか。そう思いますね。神の召命と派遣にもかかわらず、モーセは恐れ、しりごみ、逃げ出そうとするのです。弱気な性格、小心、慎重、指導者の資質では如何?
2.神の選び、神の忍耐
出エジプトから約200年後、サウルがイスラエル12部族からなる統一王国の初代の王となります。神が選ばれ、油注がれた王です。はじめはサウルを軽んじた人たちがいましたが、サウル王は、ペリシテ軍との戦いに勝利をして、その王権を確立しました。しかし、ただひとつ失敗をしたために、神はサウルを退けられ、ダビデを次の王として立てようとされるのです。その失敗とは、戦いの前にいけにえを献げて神に戦争勝利の祈願をする時、そのいけにえを献げる祭司であるサムエルが遅れてきたため、サウル王自身がいけにえを献げたことによります。神が定めた掟は、祭司によるいけにえを献げるということでした。これが祭壇の定めなのです。祭司による礼拝の執行と言えるでしょう。祭司ではなく、サウル王が自らの権力によって祭壇に上っていけにえを捧げることは違反なのです。王といえども、それは律法に背くことなのですね。神の選びとは? サムエル記上13章8節以下
そのことによって、サウルは退けられ、ダビデが王となるのです。同じような出来事が約200年後に起こります。ウジヤ王の時、勢力を増した時代でした。しかし、ウジヤ王は思い上がって堕落し、自分の神、主に背くのです。どのようにしてか。聖書は、「彼は主の神殿に入り、香の祭壇の上で香をたこうとした」 祭司たちがとめるにも聞かず、王自ら香をたこうとしたため、神の怒りにあい、重い皮膚病を顔に発したのです。「主が彼を打たれた」と聖書には記されています。歴代誌下26章16節以下。そのため、ウジヤ王は死ぬ日まで隔離された家に住んだのです。
この二つの事例から比べると、神はモーセに対しては、忍耐と寛容であり、待たれる神であります。神はご自身のご計画にモーセとアロンというレビ族を立てられた。これが神のみ旨なのですね。そのために、モーセを選ばれた。また、モーセの兄アロンを通し、この兄弟を通して、出エジプトを行われるのです。神の主権がここにあるのです。
役者がそろった。ここから出発となります。神が宥めすかしてモーセを用いようとされる意味がここにあったのです。事実、はじめは物足りなかったモーセですが、神のちからにより指導者として成長していくのです。民数記12章 3節では、「モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった」と評価されています。
神のみ旨がなること。神のご計画がこの弱っちいモーセを通して行われるのです。目的は達成される。それは人間を誇るのでなく、神の栄光があらわされるためなのです。
時を要しても。人の福祉、自由、礼拝、神中心 神を第一とすることが最優先されるのです。
3.聖書に現れる神と人間(預言者、祭司)
ここで聖書にみられる預言者、祭司たちとモーセを比較対照してみたいと列記します。一部の人たちですが。
預言者ヨナは、神の言葉を受けた時、逃避しました。「主の御顔を避けて・・・逃亡を図
った」(ヨナ書1章3節聖書協会共同訳)とあります。
祭司であり、預言者エレミヤの場合。神の強制、無理強いです。「主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉は、わたしの心の中骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです」(エレミヤ書20章9節)。
預言者イザヤ 志願、自発的 「わたしがここにおります。わたしをお遣わし下さい」
イザヤ書6章8節
モーセ 宥めすかされ
パウロ 強制的 使徒言行録9章
イエス様 従順、死に至るまで従順であられた(フィリピ2章8節)
神様が遣わし、用いようとされる器、祭司、預言者であろうと、使徒であろうと、牧師であろうと、神は時代時代に合わせて、神のみ旨をなされる。神のみ旨、お心、ご計画があり、無力な人間を用いられる。弱さ、小心、逃避的、惨めな罪びと。人間が誇りとされるのではなく、神の栄光が現れるために。神はみ旨を行われるのです。
神はあなたを用いようとされるのです。
メモ 宥和政策のこと
今のロシアがウクライナを侵攻して、爆撃、ロケット弾、破壊しまくっています。多くの人命が失われています。プーチン大統領に誰かがなだめすかして、戦争をとめることができないのでしょうか。誰もいない。
かつて、ヒットラーが台頭し、目に見えて人道面において非道を侵しているにもかかわらず、アメリカは具体的な手を打たず、イギリスは宥和政策でヒットラーを甘やかした。
その結果、ヒットラーは増長し、アウシュビッツの強制収容所、はじめポーランドに侵略、第二次世界大戦が勃興しました。
日本のファシズム、日独伊同盟 太平洋戦争、沖縄、本土大空襲、広島、長崎。
歴史は繰り返すのでしょうか。誰がとめるのか。
神よ、この人間たちを憐れみください。世界を救いたまえ。