聖 書 ローマの信徒への手紙8章12~17節
説 教 神の相続人
先週は、クリスチャンとは、キリストの霊を持っている者であることをみ言葉を通して分かち合いました。キリストの霊を持っている者こそキリストに属している者であるのです。キリストの霊は神の霊であり、聖霊でもあるのです。その霊の本質とは、愛であります。いのちであります。真理であります。
さて、本日はキリストに属している者は、神の相続人でもあるということ。そのことを
3つのポイントで説教します。
1.キリスト者の恵み
そこにクリスチャンとしても恵みがあります。それは14節
神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。
罪人であり、滅びの子であったものが、神の霊を受け、神の子とされているのです。
これ以上の喜び、恵みはありません。
わたしは九州福岡で生まれました。家は貧しく子ども5人の末っ子、いつも兄たちのお古を着て育ちました。新調の服など着たことがなかったのです。父は炭鉱夫です。炭住といって、炭鉱で働く採炭夫とその家族が住む炭鉱長屋が数え切れないほどにありました。炭鉱夫は地の底に下りて、石炭を掘り、一歩間違えれば事故で帰らぬ人になります。筑豊炭鉱の人たちの気性は激しく荒っぽい。遠賀川のいわゆる川筋気質と言います。
5人兄弟の末っ子です。末っ子は損ですね。我慢させられるのです。第一、写真がない。誰でも、赤ちゃんの時の写真を持っていると思います。
ところで、どこの教会でもクリスマス礼拝の後に、クリスマスのお祝いをします。祝会
ですね。今までわたしが仕えた教会では、盛岡、西那須野、志木の教会では祝会をします。
愛餐会をし、その後いろいろな出し物があるのです。
母教会の京都復興教会でも祝会があり、愛餐会をします。ある時、クリスマス礼拝後の祝
会の出し物で、「わたしは誰でしょう」という余興がありました。子どもの頃、赤ちゃんの時の写真を見て、誰だかをあてるのです。
教会員の幾人かの人たちの赤ちゃんの写真をプロジェクターで出して、誰の赤子の時がクイズで当てるのですね。
進行役の姉妹からわたしの赤ちゃんの時の写真を求められましたが、「僕は赤ちゃんの写真、持っていない」と言ったのです。赤ちゃんから小学校までの写真がないのです。他の兄弟、兄や姉の赤ちゃん、子どもの時の写真はあるのですね。ぼくだけがない。ひょっとすると、僕は橋の下に捨てられていたのかもしれない。そう、思ったものでした。
大きくなって、神に背く人生を歩きます。神はいない。そう嘯(うそぶ)き、罪の世界にどっぷりと漬かります。そこから脱け出せない闇の世界です。大学紛争の時代、ヘルメットをかぶり、ゲバ棒をもって機動隊と衝突する。舗道のアスファルトを粉々にして石を投げる。そういう時代でした。
権力に抵抗する。威張っている奴らを徹底的に打ち破る。そういう若気の時がありました。まさしく、滅びの子なのです。連合赤軍事件、それに続く浅間山荘事件という出来事がありました。ハイジャックして北朝鮮に逃亡する。内ゲバで同じ仲間を総括という名前で殺害する。アナーキー(無政府主義)であったのです。
このまま行けば、わたしもそういう人間になるのではないかと恐怖に陥りました。そうならなくても、最終的には自分自身が死ぬかのどちらかを選択しなければならない。
そのときに、神様と出会ったのです。神は放蕩息子のわたしをイエス・キリストのゆえに赦してくださいました。神の子としてくださったのです。
まさしく、滅びの子が神の子となった。
神の子となるとは、そこに生きる意味と生きる目的が備えられるのです。滅びの子の時には、すべてが虚しく、意味がありません。破壊だけです。建設はありません。自分も他者をも破壊し、滅ぼすことだけに意味があるのです。自爆テロと一緒です。
2.神の子は自由である
15節
あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。
神の子とされなければ、誰の子か? 奴隷の子です。サタンの子というか、サタンの奴隷ですね。罪の奴隷です。悪と罪に支配されている。がんじがらめに縛られていて、自由にならないのです。善をしようと思ってもできない。むしろ、悪を行なっている。悪臭を放っているのです。
神の子は、罪の支配から解放されたものです。軍国主義日本は、戦争に敗れて、本当の自由を得たのです。解放されたのです。苦虫を噛み潰しているのは、ファシズムの時に美味い汁を吸った人たちです。権力にすがりつき、真理を裏切り、友を売った。ナチスドイツが行なったこと。それはまさしく、サタンの奴隷でした。
今は、ロシアですね。ウクライナに侵攻し、爆撃、ロケット弾、戦車、装甲車でウクライナの人々を殺戮している。殺戮とは、惨たらしく殺すということです。女性もこどもも、赤子も殺されている。
律法の奴隷でもあります。規則、規則で縛り上げ、律法の本当の精神である神の愛から遠く離れてしまっている。神の愛、神がいのちを与えるという律法の精神をまげて、律法を守れないもの、行なうことができない人たちを罪人と糾弾し、自己正当化する。イエス様はそういう人たちによって、十字架につけられたのです。
3.アッバ、父よ
17節
もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。
キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。
実に深い言葉ですね。共に苦しむ。イエス様はわたしたちのために苦しまれている。その罪のゆえに、罪のない方が罪あるわたしたち人間のために苦しみ、うめいておられるのです。
うめきについては、次週の説教「うめきと希望」と題して説教する予定です。このことを覚えておきましょう。
今日は、「神の相続人」とされている。これが本日の説教題です。これがクリスチャンの身分です。貧しくても、弱くても、天国、神の国に招かれている。その保証を受けている。これが聖霊の証印です。キリストの霊を持つ、聖霊に満たされているということは、神の国行きのパスポートに証印が押されているということです。
外国に行くとき、税関をくぐります。パスポートに出国、入国のスタンプが押されます。
神の国のスタンプがないと入れません。
15節に「再び恐れに陥れる霊」とありますが、この恐れの霊とはまさしく神の愛と対極になるものです。心理療法の一つ交流分析があります。人間の自我状態をP A Cと分析するのですが、Pは親性(ペアレンツ)、Aは大人性(アダルト)、Cは子ども性(チャイルド)から成り立っていると説明します。とくに、Cの子ども性に「AC」Adapted Childという言葉があります。借りてきた猫のようにおとなしい子どもという意味です。「FC」Free Child自由な子、天真爛漫さとは反対です。
余りにACが高いと卑屈になり、成長し大人になると、いろいろな問題となると言われます。親から虐待を受けたり、ネグレクト(十分な愛情を受けていない子ども)される。
親に対して、恐れしかない子どもは不幸です。神は愛であり、一緒にいるとリラックスする。そのような愛の親です。アッバという言葉は、「お父ちゃん」「パパぁ」という意味です。「お父上」とは違うのですね。恐れかしこまって、近寄れない。神がそのような神なら、わたしたちの信仰は悲しいです。裁きの神、怒り、おこりっぽい、短期、いつもいらいらして不安定。サタンのような霊が神とすると、悲劇です。恐怖心、縛り付けられる恐れ、厳しく叱責され、罰せられる。荒々しい暴力への恐怖をイメージする。そこには、相手を受け容れ、抱擁する優しさが欠けています。
キリストの霊を受けるとは、恐れではなく、近づく喜びであります。招かれ、赦され、受け容れられ、抱擁され、共に宴会に与る祝福です。そして、神の子とされる。 神の国のすべての富を受け継ぐ、相続する祝福を与えられるのです。永遠のいのちです。
その神を「お父ちゃん」と呼ぶことができる。そこに聖霊の恵みと祝福があるのです。わたしたちが祈る祈りは、堅苦しいものではない。祈っても答えてくださらない神様ではないのです。
限りない恵みと祝福を与えてくださる神に感謝し今週も神と共に歩みましょう。