聖 書 ローマの信徒への手紙8章8~11節
説 教 キリストの霊を持つ
98c98829fcebefa7e9f654a67944e1bd先週3月2日水曜日、レントに入りました。灰の水曜日と言われています。主のご苦難と十字架の死を偲ぶ時でもあります。3月2日から日曜日を除く40日をレントといい四旬節または受難節とも言います。教会の長い伝統でもあります。受難節といいますから、主イエス様のご受難ですね。とくに4月10日から受難週に入ります。木曜日は洗足木曜日、金曜日は聖金曜日と言われます。十字架に架かられて、お亡くなりになり、墓に葬られた日です。
教会は、神の子イエス・キリスト様が降誕された時から、歴史の中心を神とキリスト、聖霊なる三位一体の神に置いてきました。神中心に世界も歴史もあるのだという信仰です。そのための教会暦です。こよみですね。そのことを確認いたしましょう。
さて昨年よりローマの信徒への手紙を講解説教していますが、本日は8章8~11節 「キリストの霊を持つ」と題して説教いたします。
1.キリストの霊を持つ
キリストの霊を持つとは何か。8節から再度お読みします。
肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
肉と霊の対立については7章からのテーマで何度も繰り返されて説明されています。その都度、説教でも取り上げましたね。その先を進みましょう。とくに9節「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません」です。
ὑμεῖς δὲ οὐκ ἐστὲ ἐν σαρκὶ ἀλλὰ ἐν πνεύματι, εἴπερ πνεῦμα θεοῦ οἰκεῖ ἐν ὑμῖν. εἰ δέ τις πνεῦμα Χριστοῦ οὐκ ἔχει, οὗτος οὐκ ἔστιν αὐτοῦ.
①キリストに属する
キリスト者とは神の霊を宿いている者のことです。同時に、キリストの霊を持つ者であるということです。宿しているも持つも同じことです。宿す。創世記を説教してきましたが、天幕に住む。オイケオー テントの内に宿る、住む。聖霊の内住。聖霊がお住まいになっている。聖霊に従う、聖霊の支配下にある、神の霊が宿る、キリストに属する、キリストの霊を持つ人であるといいます。神が中心であるということです。
クリスチャンとは、キリストに属する人という意味です。
使徒11章26節
このアンティオケアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。
「このアンテオケで初めて、弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった」(口語訳)
クリスチャンはキリストのもの、所有です。イエス様に従属しているのです。
モーツアルトが好きな人は、モーツアルティアン、ワーグナーが好きな人はワグネリアンといいます。熱狂的なファンという意味です。同じように、美空ひばりさんや都はるみさんを好きな人がいます。現代の流行歌手のファンもいるでしょう。そういうファンクラブがあれば、そこに属する。熱心で、活動的なファンであれば、信仰的といえるのではないでしょうか。熱心なファンクラブの人は好きな歌手のコンサートに日本中を駆け巡って追いかけています。それが生きがいであり、こころの癒し、生活の中心となっているのです。ティーシャツを着、惜しまずにクラブのグッズを買い、家中に飾っています。ある有名歌手のファンクラブには、数十万というファンクラブ登録者がいるといわれます。
ただクリスチャンはキリストに従うのです。キリストの言葉に聴き、従い、愛するのです。 キリストに従う者、ファン登録という言い方はよくありませんが、洗礼を受けて天国の名簿に名が記されているのです。イクスース ギリシャ語で魚という意味です。
車のステッカーでこのイクスースのギリシャ文字でつけている人がいます。ご覧になった方も多いでしょう。教会員もおられますね。
ἰχθῦς 「イエス」「キリスト」「神の」「息子」「救い主」
Ἰησοῦς Χριστός Θεοῦ Yἱός Σωτήρ
(イエスース・クリストス・セウー・フイオス・ソーテル)
②解放されたもの
聖霊によって、わたしたちは罪から解放されているものです。7章18節にありますように、罪が住んでいた。内に罪が巣を作っていたのです。罪の縄目、罪にがんじがらめに縛られて、どうしようもなかったのです。クリスチャンになっても罪の呵責に縛られるということもあります。わたしはどうしようもない罪人です。というわけです。しかし、キリストの十字架と聖霊の力はその罪の呵責からも解放するのです。いつまでも後ろ向きになることではないということです。
罪を赦し、汚れを清められた。これがキリストの霊を持つものの幸いです。
どこの家もそうだと思いますが、家の片付けというのは、なかなか難しいですね。掃除、整理、整頓です。わたしの姉は几帳面でとっても整理、整頓ができた人でした。しかし、5人兄弟の末っ子であるわたしは、片付けができないのです。昔、伝道集会で牧師をお呼びして説教していただきました。その時、こういうことを説教の中で言われたのですね。
「わたしは片づけができなくて、いつも奥さんに叱られる。片付けなさい。掃除しなさい。妻であるわたしを愛すると言いながら、実行できないことは、愛していないのではないか」
それを聞いて、礼拝に来られた方々は男性も女性も声を出して笑われました。大抵の男性は苦笑いをされたのではないでしょうか? 男は片付け、整理、整頓が苦手です。わたしも実はそうなのです。女性もそういう方、おられるでしょうね。
牧師館には、開かずの部屋というのがあって、そこにはわたしだけしか入れない部屋があります。余りに片付けがしていないので、入ると躓いてしまう。
でも、それは悪と罪、怠惰の罪に縛られているのではないかと思うに至りました。多忙のために片付けていないこともあるのですが。
よく、世の奥さんたちは言います。「このままでは死ねない。整理し片付けていない部屋があるので、他人に見られたくない」というものです。
では、いつきれいになるのですか? きれいにするのですか? 今でしょう・・・
となります。いま、やることはやりましょう。
③聖霊の内住
キリストの霊を持つとは、キリストの霊である聖霊がわたしたちのうちに住まわれることです。宿られることです。キリストの霊は、神の霊であり、聖霊でもあります。
9節 先ほどお読みしました。11節を読みましょう。
もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
神の霊が宿り、その支配下にあるということは、キリストにすべてを明け渡すことです。罪から解放されて、闇の部屋、罪の部屋があってはならない。
「この部屋だけは、入ってはいけません。主よ、この部屋はわたしの部屋です。あなたの部屋ではありません」。
支配下にあるとは、そうではないのですね。日本は戦争で連合軍に無条件降伏をしました。連合軍の支配下に入ることです。そこでは、主権はありませんでした。その統治にあり、占領政策に従わなければなりません。そうすることで、日本は旧体制を一掃し、民主主義の緒についたのです。
もはや、わたしたちは罪の霊に支配されているのではありません。キリストの霊を持ち、キリストに属し、神の霊、キリストの霊である聖霊が宿り、住まわれているのです。
あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。Ⅰコリント 3章16節
罪に支配され、罪の宿っているところでは、死しかありません。滅びです。しかし、キリストの十字架の恵みによって、それを信じ、告白することによって、キリストは罪から解放してくださり、死から命へと移されたのです。
3.明け渡し surrender
「キリストの霊を持たない人はキリストに属していません」。
キリストに属することは、キリストに従うことです。キリストご自身も死に至るまで、父なる神に従順でした。すべてに従い、明け渡した時に、新しいことが始まるのです。
それは命輝く時であり、真の自由です。世の人たちにとって自由とは、罪に支配されていることを言います。罪の奴隷となっていることを自由と考えているのです。
明け渡しとは
1.生まれながらの人 こころの外にイエス様がおられる。信仰以前の人。
2.肉の人 肉に支配されている。自分が主。イエス様は二の次。キリストを知っていても、肉に属している、霊的なおさなご。乳飲み子。Ⅰコリント3章 ねたみ、争い、分裂・分派。ガラテヤ5章18節 姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、敵意、怒り、利己心、不和、仲間争い、妬み、泥酔、
「神の国は受け継ぐことはできません」
3.霊の人 こころの中心である王座をイエス様に明け渡している。イエス様が主。聖霊に満たされた人。キリストに属する。キリストの霊を持つ。聖霊に導かれている人。
成長、成熟 、霊の実を結ぶ人。
愛、喜び、平和、寛容、善意、親切、柔和、節制
自分のこころの王座をイエス様に明け渡す。ここに神の祝福があるのですね。
キリスト中心に生きる。賛美、祈り、み言葉に生きることのさいわいがあります。
このことを目標に生きること。確実に達成されます。信じましょう。