聖 書 ローマの信徒への手紙7章24~25節
説 教 深い淵から
先週は、ローマの信徒への手紙7章18~25節から「心の法則、罪の法則」と題して説教しました。本日はその続きとして「深い淵から」と題して説教します。この言葉は、詩編130編1節にあることばです。詩編130編は次のように始まります。
深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。
主よ、この声を聞き取ってください。
嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。
主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら
主よ、誰が耐ええましょう。
聖書協会共同訳では、
深い淵の底からあなたに叫びます
と訳されています。
「深い淵」は原語のヘブライ語では「深い深み」という意味です。聖書協会共同訳では「深い淵の底」。足がかりのない、底なしの深みです。人間はだれでも、また、いつの世でも、魂の奥底にそうした「深い淵」を隠し持っているのです。「光がさしこまない真っ暗闇の世界」と言えるでしょう。
みなさん、そういう世界に果たして耐えられるでしょうか。想像してみてください。
それは解決できない人間の「罪」「エゴ」ということができるでしょう。その罪は、人間をさらに奈落の底に引きこもうとする力であり、汚れ、重苦しさ、霊的な闇、またそれによってもたらされる人間の苦悩のすべてを宿しているのです。パウロはそれを「罪と死の法則(原理)」(8章2節)と呼んでいます。その法則はすでに神の子とされたキリスト者に対しても、常に人間の「肉」に働きかけ、神のみこころに敵対するように働き続けているのです。人間の力ではどうすることもできない淵、それが「深い淵」と言えます。
罪におののき、震え、のたうち回るほどに苦しむのです。まさしく、誰が耐ええるでしょうか。
先週の礼拝説教、「心の法則、罪の法則」。こころを閉ざした少女の話をしました。その少女のこころの解放です。箱庭療法で、赤い絵具と自分のつばをこねて血を作りました。無意識のうちに血をイメージしたのです。血はイエス様の十字架の血潮です。そこにこそ、救い、助け、いのちがあるのです。みずからの裡のもっとも汚れたものを吐き出し、キリストを受け入れた時に、救いが訪れるのです。
深い淵からわたしたちを助け出すのは、十字架のみ
1.永遠のいのちの保証
イエス様はマタイによる福音書10章 28節で次のように言われます。
体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
裁きに対する恐怖。何を恐れるのか? 死ではない。誰でも死ぬ。本当に恐ろしいのは、死んだあとの裁きです。「死者の裁き」があるのですね。黙示録20章12節です。
「それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた」
これが第二の死です。滅びです。「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(へブル書9:27)とあります。「第二の死」に定められる者とは、「命の書に記されていない者は火の池に投げ込まれた」(黙示録20:15)たちであり、死後のさばきのために復活した後に「火と硫黄との燃える池の中に投げ込まれる」者たちです。
地獄はゲヘナ.黄泉とも訳されます。キリストの十字架は、死後の裁きにおいても救いなのです。無罪です。そこに永遠の命があるのです。
2.呪いからの解放
第二は、十字架の信仰は、呪いからの解放なのです。「罪の法則」という呪いに縛られているわたしたち。呪われているのです。しかし、イエス様ご自身がその呪いを引き受けてくださった。ご自身のいのちと引き換えに。
これが究極の救いです。
キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。
ガラテヤ3章13節
わたしたちは、呼び求めます。助けてください、と。救いを求める意思です。信仰ですね。叫ぶのです。神様、あなたなしには、ダメです。耐えられません。助けてください。お救いください。
そのように、こころの底から神に助けを求めるのです。救いを求めるのです。それは、何ですか? 自己の内にある罪の解決です。自己の裡にある闇の解放です。
主イエス様の十字架は、まことの救い、助け、赦しです。主の十字架の赦しなくして、誰が自分の罪の重荷に耐えることができるでしょうか。
山田 彰牧師のこと
山田先生は、東宝映画のニューフェースに応募し、数々のテストをクリアして合格しました。第1期生でした。映画スターの第一歩をスタートしたのです。ちなみに2期生は宝田明さんということです。
山田先生は、東宝映画の主演を張り、一躍有名になりました。わたしもその映画を観たことがあります。先生の教会に行ったとき、書斎に若かりしときのポスターが張られてありました。かなり色褪せていましたが・・・
先生は、東宝の映画俳優として有名になり、もてはやされました。お金も入り、湯水のように金を使いまくったとのことです。友人関係も「酒、女、ギャンブル」とその関係のひとたちばかり。気が付いたら、仕事がこなくなり、ちやほやしていた人たちも寄り付かなくなり、顔を合わせても知らぬ顔で遠ざかってしまう。尾羽打ち枯らしてしまったのです。
ルカ福音書15章の放蕩息子のようですね。
気が付いたら、貧しくなり、今日一日のパンを食べられない状態になったのです。電車に乗って、ホームから飛び降りて死のうと思った。電車を待っていました。しかし、なかなか死ねない。
ポケットに10円玉ひとつ。それに懸けた。教会に電話するのです。牧師が出て、話をする。3分間。「今すぐ教会においで」と言われ、駅の改札口を出て、教会へ。
求道生活。洗礼。教会生活。結婚。献身。神学校。牧師に・・・。
その後の牧師の生活。めでたしめでたしではない。さらに、試練が訪れるのです。その話は、いずれ・・・
罪の法則は、滅びの法則でもあります。この法則にいる者は、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と嘆き、悲しむしかないのです。しかし、25節には、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と逆転の喜びが溢れ出ています。
解放者、救い主、助け主、永遠のいのちを与える方がおられる。信仰の勝利を与える方がおられる。そのかたこそ、主イエス・キリストであり、わたしたちを滅びから贖ってくださる方なのです。
恵みの本道8章へと続きます。期待して、この信仰に固く立ちましょう。
祈ります。