聖 書 ローマの信徒への手紙7章18~23節
説 教 心の法則、罪の法則
精神分析による心理療法家の河合隼雄さんには、沢山の著作があります。その中で、「子どもと悪」という本はとても興味あるものでした。悪は聖書的には罪ですが、子どもの成長過程において悪は必要なものであるというのです。
本日の聖書、ローマの信徒への手紙7章18節以下を読みますと、善と悪の葛藤とこころの分裂の危機が見られます。そこでは、心の法則、罪の法則という言葉が出てきます。
18節以下をお読みします。
わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。 「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。
ここでは、法則という言葉が幾度か使われています。21節「悪が付きまとっているという法則」、23節「五体にはもう一つの法則」「心の法則」「五体の内にある罪の法則」ですね。
また、21節の「内なる人」としての神の律法という言葉。これも法則です。
ギリシャ語原典では同じ言葉なのです。法則は、「戒め」「律法」「原理」とも訳されます。もともとは、ノモスというギリシャ語です。翻訳上、苦心して訳しているのですね。ちなみに、英語訳はlawです。(KJV)
そこで、以下に4つのポイントで説教します。
1.心の法則
心の法則とは、善なることを行うという自然の生き方を指しているのでしょう。「心の法則」の「こころ」は、ギリシャ語の原語では「理性」「良心」の意味でもあります。わたしたちのこころにある良心。神を知らなくても、また律法を知らなくても、善を行い、道徳的・倫理的な生き方が備わっている。そのように神のかたち(像 imago Dei)として創造されている。その心のあり方のことだと思います。神に向かうこころ、神に喜ばれるように善を行う。すくなくても、神のみこころにかなうような信仰生活を行うということですね。
2.罪の法則
それに対して、五体の内にある「罪の法則」の支配にあって、神に従うことができない。そういう自分を見つめて、24節にパウロは叫ぶのです。
わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
善と悪、律法と罪の問題でわたしたちのこころは葛藤を起こし(アンビヴァランス)、心が引き離されるような気持ちになることがあります。ひどくなるとジキルとハイドのように一人の人が自己の心の中に別人格の人間を宿すことになります。
こころの病になることもあります。
ことばで説明すると難しくなります。そこで分かりやすいように、別の表現をいたします。しかし、このことで、かえってつまずきとならないように注意していただければと思います。
交流分析というカウンセリングの手法に「禁止令」という言葉があります。子どもの成長過程において、親が「あれをしちゃ駄目、これも駄目、ダメダメ・・・」と子どもに禁止の命令を行うことを言います。親はもちろん親心から(老婆心もありますが)子どもに駄目というのですが、子どもは自分のしたいことを禁じられるので、心に葛藤が生じ、ついには心が引き裂かれることがあるのです。
一つの例は、「遊んじゃ駄目、ゲームも駄目、勉強しなさい」です。どこの親も子どもがゲームばかりして、宿題はじめ勉強をしないので、ゲームを禁止することがあろうかと思います。スマホのゲームばかりする。
これはほんの例ですが、禁じられたことをしたい。しかし、親は駄目という。子どもはどうしてもしたい。親の命令を守らないと、保護してもらえない。子どもはそれが分かっているのです。それで仕方なく従うのですが、心の底では欲望が消えません。
そのこころの深いところ(潜在意識)にしたいけれども、禁止され、押さえつけられた欲望が渦巻いているのです。
聖書は、律法があり、律法はそれを侵し破ると罪となり、罰が下ります。ローマ書の7章の言葉でいえば、それを心の法則に反して罪の法則としています。こころの奥深くに渦巻いている欲望を達成しようとする気持ちです。聖書、創世記2章には、善悪の知識の木の実を食べてはならないと禁止されているにもかかわらず、食べてします。人間の根源的な罪の欲求です。「食べちゃうダメ」。人間はダメと言われれば、あえて食べてしまう。この戸は開けてはダメといわれたら、開けずにはいられない。物語は始まらないのです。
3.こころを解放する
最初に紹介しました河合隼雄氏の「子どもと悪」という著書に、ある6歳の女の子の記事があります。家の中ではよく話しているのですが、外ではしゃべれなくなる。てんかん発作があり、病院に行き医師から薬をもらい、治療をしてもらっているとのことです。
(河合隼雄氏の「子どもと悪」を題材にして、2021年2月7日の礼拝で説教題「心の割礼」で取り上げました。)
そこで河合氏は遊戯療法を始めました。「遊ぶな」という禁止を受け続け、こころが閉じてしまった子どものこころに「遊んでもいいのだよ」と遊びの療法を施すのです。
この少女は遊戯療法をはじめると、鉄砲(ピストル)を見つけて喜んで撃ったり、攻撃的な遊びを喜んでするのです。そして鉄砲を撃つと「ママを撃った、死なはった」と言う。心の願望は、ママを撃って、殺すというのがあるのでしょうか。その後、箱庭に使う玩具の小さい洋式便器を見つけ「便所やなあ、これはママのうんこや」と嬉しそうに言うのです。「ママは幼稚園から帰ってくるとうんこしはる」とも言うのです。(関西弁です)
こういう遊戯療法を行っていくうちに、うんこに対する関心が強くなって、絵の具を出してかき混ぜ「うんこ」をつくるのですが、そのうちにそれが「ミルクや」「うんこや」と混じってくる。次には、「血を作るわ」と言って、赤い絵の具に唾をはきかけ、「血」を作るのです。
普通の親や大人なら「なんて汚い」と怒ったり嘆いたりすることがあります。しかし、遊びの中で自由に鉄砲をぶっ放したり、うんこを出したりするようなことができる。そこに心理療法家との信頼できる人間関係ができあがったのでしょう。その過程でこの少女は自分を出すようになったのだと思います。
こうして自由な遊びを通じて、少女は元気になり、人前でも話ができるようになったのです。
河合氏はこう締めくくっています。「母親を撃って殺すようなところがあり驚く人もあろうが、これはこの子と母親との関係が急速に変化することを示すと受け止められる。殺すとか、うんことか、それを聞くと、大人は『いけません、駄目』とすぐにとめてしまうような遊びを通じて、子どもが癒されていく」。
心理学では、スポーツやゲームは、わたしたちの潜在的な意識、戦う、相手を殺す、滅ぼすという欲望の昇華であると言っています。芸術などもそうですね。
さて、聖書に戻りますが、パウロはわたしたちのうちにある罪、善をしたくてもできないことで、葛藤し、悩み、うつうつとします。
罪に捕らわれている間は、パウロのように「わたしは何と惨めな人間でしょう」と嘆かなければなりませんでした。それは、自己を小さくし、卑小化し、過小評価、真のいのちに至らせないようにする力です。病気になり引きこもりを起こし、自閉的にすらなります。
キリストの十字架は、わたしのため。これがわたしたちの信仰であり、十字架こそが、わたしたちの罪を赦し、こころを解放するのです。
4.キリストの十字架は、わたしのため
少女がピストルを撃って、母親を殺し、ママのうんこをイメージし、血を作って癒されたように、わたしたちもキリストを磔に付けて殺し、その身体を食べ、血を飲むことによって癒されるのです。カタルシス効果です。
自己のうちにある罪、醜さ、醜悪さ、汚れをわたしたちは認識し、それを露わにすることによって、わたしたちはその罪と汚れを吐き出すのです。宗教的には、それは信仰告白と呼ばれます。
神はそれを備えられたのです。これが神の計画でありました。
キリストの十字架のペンダント、ネックレスを多くの女性が身に着けているのを見かけます。男性も身に着けるようになりました。十字架は素敵な飾りとなっています。
しかし、十字架はむしろ、わたしの内に潜んでいる汚れ、醜さ、醜悪を吐き出しているものなのです。嘔吐したものをわたしたちは口にすることはありません。しかし、キリストの十字架は嘔吐そのものなのです。
わたしたちが、十字架を身につけ、時に接吻することもあります。それは自分の罪を負ってくださったキリストへの愛と感謝、喜び、そしてまことの謙遜を意味し、それを表しているのです。
こうして、神の子イエス様の十字架の死は、わたしたちの罪を赦し、罪と死から解放してくださったのです。これがキリスト教の信仰です。ハレルヤ!