2022年1月30日 降誕節第6主日礼拝

2022.0130.Shyuuhou

聖 書  出エジプト記3章13~15節

説 教  神のお名前

 わたしたちキリスト者は、一日に一度は「主の祈り」を祈っていることと思います。

 「主の祈り」は次のように祈りますね。「天にまします我らの父よ、願わくは、御名を崇めさせ給え」。これは文語訳ですね。聖書の言葉(新共同訳)は、「父よ、御名が崇められますように」(ルカ11章2節)です。

 ところで、ここにある「御名」とは誰の名でしょうか。もちろん、「父の名」ですね。「父なる神様のお名前」です。では、「神様のお名前」は何というのでしょうか。

人間には、男も女も固有の人間としての名前があります。記号と言ってもいいかもしれません。その人を特定し、他と区別し、識別する名前です。また、「名は体を表す」というように、その人の本質、実体を表すものです。

 では改めて、「神の名」は何と言うのでしょうか。

1.神の名は・・・

じつは畏れ多くて、到底言うことはできないのです。十戒に、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」(第三戒、出エジプト記20章7節)とあります。そういうことで、神の名は唱えられなくなったのです。名前を忘れるのは、健忘症か認知症の人かもしれません。しかし、肝心の神様の名を聖書の民は忘れてしまったのです。

それでも、聖書には神の名の記述は残っているのです。化石のように、あるいは遺跡のように残っているのではありません。旧約聖書には、何と6828回、この神の名が記されているのです。イスラエルの民は、このお名前をアドナイ(主)と読み替えていたのです。つまり、神様のお名前を匿名で呼んでいたようなものです。 では、神の名とは。

 わたしは文語訳聖書をデボーションで使っています。もう10年近く文語訳聖書を読んでいるのです。そこには、なんと6828回もエホバと記されているのです。

 詩編23編、有名な詩編です。「主は牧者であってわたしには乏しいことはない」。

これが文語訳では、「エホバはわが我が牧者なり われ乏しきことあらじ エホバは我をみどりの野にふさせ いこひの水濱にともなひたまふ」というようにです。

 神の名をむやみに呼んではならない。そのためにアドナイ「主」という言葉で呼んだのです。難しいですが、神学的には「エホバ」ではありません。ヤハウェと呼びます。つまり、神様のお名前を匿名で読んでいたようなものです。 では、神の名とはエホバではありません。難しいですが、神学的に「ヤハウェ」と呼びます。

 ヘブライ語では、次のようになります。

 

4つの文字で記されています。ヘブライ語のアルファベットですね。神聖四文字(テトラグラマトン)とされています。

 ヘブライ語は、右から左に読むのですね。

 神聖四文字(テトラグラマトン)

  י ヨッド  ה  ヘー  ו  ワウ  ה  ヘー

 ヘブライ語は母音がないのです。子音のみです。母音の記号をつけて読む。しかし、神の名には母音記号を付けなかった。神聖なのです。ヤハウェ YHWH

 ヘブライ語は母音がないのです。子音のみなのです。しかし、神の名には母音記号を付けなかった。神聖だからです。

 十戒の第3戒。「神の名をみだりに唱えてはならない」。

 アドナイ → ヤハウェ YHWH

2.モーセに啓示される神の名

 さて出エジプト記3章ですが、神はモーセに顕現されて、エジプトに奴隷状態になっているイスラエルの人々を導いて、カナンの地に脱出させようとモーセに語られます。その時、モーセは尋ねるのです。あなたのお名前は何ですか。13節ですね。お読みしましょう。

モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言え ば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」

 エジプトに400年間いました。エジプトの神々、偶像ですね。それぞれに神の名があります。ホルス、オシリス、セトなど何十とあります。エジプト育ちのモーセは、神様のお名前をイスラエルの人たちに伝え、この神様がカナンの地に導かれ、解放されるのだと宣言する必要があったのです。名前のない神にイスラエルの人たちは、信用するわけがないのです。

 神の御答えは、14節以降です。

神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」

 神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわ たしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名、これこそ、世々にわたしの呼び名。

 神の名は「わたしはある。わたしはあるという者だ」「わたしがある」

 ところで創世記でも神様の名があります。固有名詞というより一般名詞、通称ですね。万軍の神です。ほかにもいろいろあるのですが、本日は割愛します。ただひとつ、神は「アブラハム、イサク、ヤコブの神」として、モーセにご自身を現わされるのです。

3.「わたしはある」-名前の意味

 「わたしはある」とは何か?

 それは、存在をもたらされる神ということです。翻訳された聖書は、以下があります。

「我有りて在る者」(文語訳)

「わたしは、有って有る者」(口語訳)

「わたしはある。わたしはあるという者だ」(新共同訳)

ヘブル語は以下の通りです。

読み方は、「エイェ・アシェル・エイェ」です。エフイェ・アシェル・エフイェと読む人もいます。ヘブル語学者ですね。 神の永遠性、超越性、不変性を表わすと言われます。

 ローマの信徒への手紙4章17節でパウロは、神について次のように記しています。

「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、 その御前でわたしたちの父となったのです」

口語訳は、「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。」

 「無から有を呼び出される神」

この方こそが、永遠から永遠にいまし、時間と距離すべてにおいて超越し、変わることがない神であるのです。その信仰ですね。

 神は、歴史を導かれる神

その神がモーセに現れ(顕現)、ご自身を啓示され、イスラエルの民をエジプトから導こうとされる。創造の神は、歴史を導かれ、イスラエルを愛し、目を留められ守られる神。

アブラハム、イサク、ヤコブの神として彼らのへの祝福の約束を忘れることなく、実現されようとするのです。

4.新約聖書における神

イエス様が、御自分で自分の御名を明かしたヨハネ8章58節では、「わたしはいるのである(口語訳)」「わたしはいるのです(新改訳)」「わたしはある(新共同訳)」(原語は「エゴ・エイミー」)で、旧約聖書の「ヤーベェ(ヤハウェ)=主」を指し示しているのです。

 ローマの信徒への手紙のまえに、ヨハネによる福音書を3年間、連続講解説教しました。その時に、何度も申し上げましたね。覚えておられるでしょうか。

 イエス様はご自分のことを「わたしは・・・である」という言葉を何度も語られましたね。「わたしが命のパンである」(6:35)、「わたしは世の光である」(8:12)、「わたしは門である」(10:9)、「わたしは良い羊飼いである」(10:11)、「わたしはよみがえりであり、いのちである」(11:25)、「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)と自己宣言しておられます。「わたしは、『わたしはある』という者である」を意味しているのです。

 いま、わたしたち新約聖書の信仰を持つキリスト者は、神様のお名前を「ヤーウェ」と唱えることはしません。「主なる神様」と呼びかけます。そして、神の御子イエス様のお名前は大々的に呼びかけ、祈りに際しても唱えることをしています。イエス様のお名前は、永遠なのです。永遠から永遠にいます神。それはイエス様であります。

 わたしたちは旧約聖書を読み、礼拝にて説教する意味はここにあるのです。旧約と新約は連続し、一貫しているのです。神の救済は、神が人となり、イエス様ですね。そのキリストがわたしたちの罪のために十字架に架かられた。それはキリストを信じる者が救われ、永遠のいのちを得るためであります。

 聖名を崇めます。