聖 書 ローマの信徒への手紙7章7~17節
説 教 もう一人のわたし
よく「人は見かけによらないもの」と申します。「外見と中身が違う。優しそうな印象なのに、実際は冷たい性格だ」とか「あの人は表と裏がある。建前と本音を使い分けている。内と外が違う」。そんな風に人を評価することがあります。これがもっとひどい攻撃的な表現となると、次のようになります。すなわち、「あの人は二重人格者だ」。
そういう攻撃、非難で「二重人格だ」と名指される人は、いったいどんな人だろうと見てみると、そんなにひどい人でないことがわかります。むしろ、そのように攻撃し、非難した人の方が二重人格的であるように思うことがあります。
二重人格の代表のように考えられている人物がいます。フィクションの世界ですが、「ジキルとハイド」ですね。犯罪心理学でよく取り上げられることでもあります。
さて教会でもよくこの二重人格を当てはめる傾向があるように思います? 「あの人は教会の顔と家の顔が違う」と言うように・・・。「信仰者の顔と俗物の顔がある。教会では敬虔(piety)を装い、愛に富み、優しい。まるでイエス様のようだ。しかし、家に帰れば、家族に対してがみがみ怒鳴り、牧師やほかの信徒を非難し、こき下ろす」。そういうことだってあるのです。牧師でも礼拝が終われば、家族に信徒や役員の悪口を言って憤りを噴出す。そういう牧師がいるかもしれません。
しかし、こういう経験は誰にでもあるものだと思います。基本的に人間は誰でも、この二重人格的な要素を持っているのではないかと考えます。
「いや、わたしはそんなことはありません。自分のこころに何人も住んでいることはありません」
そのように声を大きくして、つまり確信を持って言い切る人はいないのではないでしょうか? 人間はその心の中に、二重人格的な要素を持っている。これが、人間が人間を見てきた歴史的な真理であり真実であります。
ローマの信徒への手紙の著者であるパウロは、自分の心のうちに善と悪の二つがあると言っています。そして、善と悪を規定したのが律法であるというのです。それは自分の中に表があり裏があると認めていることでもあります。建て前と本音があるということですね。
1.律法の役割
ユダヤ人であるパウロにとって、律法は生まれたときから教えられてきた神の掟です。申命記6章4節によれば
聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。
これらの言葉とは、律法のことです。このようにして実際に、子どもの時から徹底的に律法を教え込まれ、律法によって育てられてきたのです。これがユダヤ人のアイデンティティーでした。アイデンティティーと申しますのは、自己同一性と訳しますが、自分が自分であるという確信、「わたしはわたしであって、ほかの誰でもない」。そういう思い、確信ですね。
ですから、律法を否定することは、自分ではなくなることを意味します。自己が崩壊してしまうのです。パウロにとって律法は否定するものではないのです。むしろ、罪の理解を深めるものとして、悔い改め、神に近づく恵みとして受けとめたのです。
イエス様も同じように律法を叩き込まれて育ったでしょう。イエス様も神を父とされたのですから、父なる神ご自身がモーセを通して与えられた律法を否定される筈がありません。「律法を廃するためではなく、律法を完成するために来られた」のです。
律法の役割ということですが、その律法が罪を明らかにするのです。
2.律法に生きることの限界
神は律法に生きるユダヤ人に限界をもたれていました。誰一人として律法を守る人がいないからです。みな、律法を冒している。旧約の歴史、イスラエルの歴史がそれを証明しています。
パウロは理論的にそれを裏付けます。9節
わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。
律法はそれ自体、神から与えられたものですから、聖なるものであり、正しく善いものなのです。しかし、人間自身のうちに善に反するものがあるのです。そこに律法の限界があります。その限界を超え、新しい恵みを神は用意されておられました。イエス・キリストの十字架です。
イエス様が律法を完成し、福音をもたらされた。そこに神の計画があったのです。
律法の本質は愛です。イエス様-律法の一番大切なことは何ですかという問い。
神を愛すること。隣人を愛すること。
しかし、愛することができない。ここに人間の本質的な罪があるのですね。
3.律法を超えるものがあるーそれは福音
15節から読みましょう。
わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
わたしたちは誰でも、天邪鬼と申しますか、へそ曲がりなところがあって、望ましいことをしたくても、その反対のことをしているということがあるのではないでしょうか? 右に行けばいいと分かっていても、左に行ってしまうことがあります。人を励ます思いがあっても減らず口をきくということがあります。
「自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをする」。そういうことがあるものです。これが反社会的になると犯罪となりますが、理性によってかろうじてとめているということです。
パウロはそのことを「自分の中に住んでいる罪」と言います。パウロは伝道者であり、信仰者の模範のような存在であります。そのパウロでさえも、自分の中に罪があるというのです。
わたしたちは、イエス・キリストを信じて、罪を赦され、救いに与っていると信じています。これがクリスチャンです。しかし、そのクリスチャンであってもなお、罪が宿っており、ことあるごとに罪の機会が襲ってくるのです。
罪は、ことあるごとにわたしたちを神から離そうと狙っています。神から離れる。それは罪を犯すことです。神は罪を嫌われます。というか、むしろ闇や罪のほうで、光である神のもとにとどまることはできないのです。光の中では、闇や罪は消え去るしかないのです。ですから、罪はわたしたちを誘惑して、光なる神からわたしたちを引き離すのです。
人間の本性について、古代中国の思想家は性善説、性悪説を唱えました。
聖書は7章を読む限りでは、性悪説に立っているように考えられます。「わたしの中にすんでいる罪」「自分の内には善が住んでいない」「わたしは自分の望む善は行わず、望ましくない悪を行っている」「わたしの中に住んでいる罪」。そして、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」と人間の内にある罪の性質を徹底的にあばいているのです。
しかし、聖書は「だからお前は駄目なのだ。罪人なのだ。滅んでしまえ」とは決して言っていません。そういう<内にある罪の性質と罪の傾向性>を主イエスの十字架の血潮が解放したと宣言するのです。これが神の恵みであり、まことの福音であるのです。
アイデンティティーのことを申しました。自己が自己であるという安心感です。キリストの恵みは、罪によって引き裂かれた自己を回復しキリストにあって一つにする。これが福音なのです。
アイデンティティー・クライシスと言う言葉があります。カウンセリングで使用される言葉です。自己喪失という意味です。現代の若者に多くみられる自己同一性の喪失というように使われます。「自分は誰なのか」「自分は何なのか」「自分にはこの社会で生きていく能力があるのか」という疑問にぶつかり、心理的な危機状況に陥るのです。
その解決がないままに、若い人たちは、悩み苦しみ、ある面ではのた打ち回っている。そういうこころの状態ではないかと思うのです。
人生の解決はキリストにある。これが教会のメッセージです。人生の意味と目的を明確に提示するのです。神によって造られ、神に回帰する。そこに真の平安と自己の発見があるからです。
パウロは悩み苦しみながらも律法を超えて、キリストの福音に接したとき、律法の意味と目的を理解し、神の永遠の救いの計画を理解したのです。
先週、1月15日朝刺傷事件が発生しました。全国共通テストがあり、東大も共通テストの会場の一つでした。多くの受験生がテストに向かっていましたが、名古屋から来た高校2年生が事件をおこしたのです。17歳です。東大の医学部を受験するとのことです。
この事件は、大きなニュースになりました。ご存知のことでしょう。試験で成績が優秀で東大医学部を受験する。エリート中のエリートです。成績が落ちたことで、かなり精神的に動揺した結果、この事件を起こしたのですね。東大だけがすべてではない。他にもっと道があるだろうと思うのですが、本人にとって、東大以外はなかったのでしょう。何のための人生なのだろう。そう思いますね。
現代は本当の自分を見失っている時代です。罪によって見失われている。罪によって神を見ないようにされているのです。しかし、キリストに向くときに、その覆いは取り除かれ、真の自分を発見するのです。キリストにある自分を発見するのです。そして、自分自身の中にキリストを発見するのです。本当の自己の発見です。それが癒しであり、力であり、いのちなのです。
アイデンティティー・クライシスの時こそ、人生を考え、語り合うときなのです。その答えを、社会は持っていません。教会、キリストにつながるわたしたちが人生の答えを持っているのです。キリストにあって、「われ、悩める人かな!」との嘆きを超えているのです。
感謝ですね。ハレルヤです。