2021年12月26日 降誕節第1主日礼拝

2021年12月26日 降誕節第1主日礼拝

説教メッセージ


「家族の意味
聖 書  ルカ2章41~52節 

 2021年最後の礼拝を迎えました。今年も昨年同様、新型コロナ・ウィルス感染のニュースにより教会も日本国もそして、世界も危機の中にありました。以下にこの危機を乗り切っていくか。これが国家政府の課題でした。経済活動、福祉問題です。教会は休止し、3回の分散礼拝、2回、そして1回と礼拝を行い、この危機の中で教会の信仰共同体として働きを祈りつつ継続してきました。共に重荷を負っていただいた役員の兄弟姉妹に感謝します。

さて、アドヴェントの4週はルカによる福音書から取り上げました。天使ガブリエルが現れ、祭司ザカリアとそのエリサベトの懐妊、次に天使ガブリエルはマリアに現れて、イエス様の懐妊を告げるのです。マリアの信仰と賛歌(マニフィカト)、24日のイヴ礼拝ではイエス様の誕生を語りました。本日は、イエス様の12歳まで成長した時の物語です。 

 神が人となられた。神学用語では「受肉」と申します。永遠の神、目には見えない霊の神が人間として生まれる。これがわたしたちの信仰です。キリスト教信仰の出発点なのです。

 神が人となられた。具体的に言うと、胎児(母のお腹に宿り、お腹の中に10か月とどまり、そこから成長していくのです)、出産して赤子となる。幼児、少年、青年、大人として成長していく。ひとりの人間が歩む道をたどられる。ただイエス様は、35歳ころで十字架に架かり死んでしまわれるのです。しかし、三日目に甦られ、昇天され、今は全能の父の右におられる。これがわたしたちの信仰です。さきほど使徒信条で告白したとおりです。

仏教の始祖、釈迦は生まれ出て7歩あゆみ、右手を上に、左手を下に向けて、『天上天下唯我独尊』と言ったとの伝説があります。母は出産した7日後に死んだ。

 王子として生まれた。その出生とそだちは細かく記されている。父王はじめ臣下と国民から期待がかけられていた。

 

今日の聖書の箇所は、イエス様が12歳の時の記録です。少年12歳、日本でいえば、 中学1年生くらいでしょうか。それなりに成長し、自立できる年齢です。ユダヤ人のしきたりでは13歳で成人式を迎えます。その1年前のイエス様の姿を聖書はあえて12歳として語るのです。日本では元服という儀式がありました。数えで11歳、武士の世界ですと12歳から16歳、個人差がありますが、元服をすると成人扱いです。伊達政宗は11歳で元服したと伝えられています。女性は、12歳くらいで初潮を迎えます。 

 41節からお読みします。

さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。

 ユダヤ人の成年男子は年に三度エルサレムに上って過越祭(除酵祭)、七週祭、仮庵祭に参加しなければならない、とあります(申命記16章1~7節)。

 「イエスが12歳になった時も」とあります。一家そろって、エルサレムに巡礼したのでしょう。子どもを残すことはしなかったのです。

 祭りの期間、全国からエルサレムに向かって集まり、また帰るのです。正月の帰省のようなものです。新幹線は、コロナ前は乗車率120%で超満員となります。昔は徒歩ですから、巡礼の時も大変な人だかり、行列が絶えなかったことでしょう。

 こういう状態である事件が起こったのです。それはイエス様が迷子になってしまったということです。親類や知人などご近所さんたち一行で一団となって巡礼していたので気が付かなかったということでしょう。毎年のことですから、はじめての旅でもない。

今日の聖書箇所で注目すべき3点を上げますと、以下のようになります。

1.迷子事件

 先ほども申しましたように、ユダヤ人は年に3度エルサレム神殿に詣でねばなりません。

ヨセフとマリア、イエス様の家族は忠実に守っており、年に3度エルサレムに通っていたのです。ガリラヤのナザレに住んでいました。エルサレムまで距離的には直線距離では100キロです。実際の道は140キロくらいだそうです。山道が多いので、一日30キロあるくと4日ほど行程でしょうか。仙台から一関の先、あるいは仙台から郡山を超えて須賀川の距離です。徒歩ですから、4,5日はかかるでしょう。一年に3度往復します。両親にとってなじみの旅です。イエス様の小さいときから一緒に歩いていくともっとかかったでしょうが、なじみの道でもあります。

 エルサレム神殿にお参りして、帰り両親はイエス様がいなくなっていることを気づいたのです。急いで引き返しました。エルサレムは神殿を中心にして街が築かれてあります。神殿の境内でイエス様を見つけたのです。

そこでヨセフとマリアがイエス様を見つけた時、意外な光景がありました。それは、イエス様が「神殿の境内におり学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた」のです。46節ですね。

そこで、マリアはイエス様に小言を言ったのですね。叱ったとは書いてありません。激しい叱責をするか、しかりつけるとか親として折檻はしたかもしれません。しかし、12歳のイエス様にマリアは小言を言ったにすぎません。

48節

「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」

 イエス様の答え

「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」

しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。

2.驚き

47節と48節に二つの驚きがあります。一つは

「聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた」

 ギリシア語では、驚嘆する。舌を巻くという意味です。賢い受け答えに、不思議がる。天才あるいはモーツアルトのように神童ですね。3歳でチェンバロを演奏し、5歳で作曲しました。12歳では大演奏家、作曲家になっていました。ヨーロッパの王侯貴族、大商人たちから注目された人物になっていたのです。

 神の子イエス様は、いかほどのものだったかと推察します。能力的にははるかに高いものがあったことでしょう。しかし、その記録はありません。

 48節 両親はイエスを見て驚き、母が言った。両親の驚きですね。このギリシア語の意味は、呆れる、面食らう、唖然とするという意味があります。同じ驚きでも意味が違うのです。その驚きの言葉、「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」

 イエス様の答え

「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」

 マリアは「お父さんもわたしも心配して捜していたのです」

イエス様「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だ」49節

 マリアが言うお父さんはヨセフのことです。しかし、イエス様の「自分の父の家」ということば。父とは神のことですね。12歳のイエス様は、この時にすでに神を父と自覚されていたということです。

 神殿での学者たち。律法学者やファリサイ派の人たちのことでしょう。同等で話し合っていたことを驚いたのです。

 

将棋の世界 藤井聡太さん プロの棋士です。史上最年少(14歳2か月)で四段昇段、プロになる。そのまま29連勝。負け知らず。現在4冠(竜王・王位・叡王・棋聖)。天才ですね。

 モーツアルトにしても世には天才というひとたちが出てきました。しかし、イエス様は神の子としてすべての人間の罪を贖い、赦しと解放という神の子としての務めを果たされるのです。

3.両親に仕えた

 祭りの期間を終えナザレに帰る両親と一緒に、イエス様もナザレに戻られます。ナザレでは「両親に仕えて」お暮らしになります。ここの「仕える」は、「従う、従順である」という動詞が用いられています。イエス様も家におられるときは、家族の一員として家庭を経験されたのですね。イエス様が家を出てガリラヤの各地を巡回し、福音を告知する活動を始められたのは「おおよそ三十歳」(3:23)とされていますから、12歳からの18年の期間、ナザレでのイエス様の生活を、聖書はこの「両親に従われた」の一句でまとめているのです。

 実は節に少年イエスとあります。この少年という語は、パイスというギリシア語です。この言葉は、年若い男の奴隷や召使いという意味もあるのです。(七十人訳ギリシア語聖書ではイザヤ書の「主の僕」の「僕」をこの《パイス》を用いて訳しているのです。イザヤ42:19,50:10,54:17)

 ルカによる福音書はすでにイエス様が主の僕として、神に従順であられた。すでに肉における両親においても従順であり、仕えられたことを表しているのです。これが49節

「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」の本当の意味なのですね。

 現代において、両親や兄弟、妹に僕として仕えるというと、DV家庭内虐待として訴えられる可能性があります。

 しかし、主の僕としての神に仕え、世に仕える姿勢の表われでもあります。

 神の子イエス様は、すでにご自身の使命を自覚されていたのです。すべては模範を示されたのです。家族をもたれた。家族と共に生きてこられた。家庭を必要とされた。両親と兄弟。4人の男の兄弟と2人の妹がいた。マタイとマルコに記されているのですね。そういう家庭にあって長男として両親と兄弟たちを養っていたのです。仕える僕としての姿がここにあります。こうして30歳を過ぎて、イエス様は世に出て福音を告げ知らせるようになるのです。その最初がバプテスマのヨハネによる洗礼を受けられることです。

 これについては次週の説教となります。

祈ります。