聖 書 ローマの信徒への手紙6章12~14節
説 教 道具の使い方
前回10月17日の説教で、クリスチャンとは罪に死に、キリストに生きるもの、甦ったものであると学びました。ローマの信徒への手紙6章1~11節においてです。説教題は「水と霊の洗い」でした。ここでは、洗礼(バプテスマ)の意味を説明しながら、死と復活を経験したものがクリスチャンであると語ります。そして、クリスチャンはキリストと結ばれ、キリストと一体となった。一つのからだとされたものであると言うのですね。
つまり、クリスチャンとは信仰をもって、キリストとの結びつき、キリストと一体となることを選び取ったのです。それを自分のこととして引き受けて生きていくことを約束したものであります。
選び取った生き方とは、何か? ①キリストをわたしの救い主として信じること。②神のみを神として信じ、従い、その支配下に自分を置くこと。 ③その信仰によって、神がわたしの罪を赦してくださること。 ④洗礼を受けて、キリストと結ばれ、一体化するという信仰を持つこと。こういうことです。しかし、それで終わりではない。ここからが本当のスタートが始まるのです。それは実践ということですね。
信じ、その生き方を選び取った決断を実行に移すこと。これが本当の始まりであります。
それは何か? 本日の聖書ローマの信徒への手紙6章12節から14節に記されている通りです。
1.もはや罪の支配下にいないという信仰
罪に死に、キリストと共に生き返った。これがクリスチャンです。ですからもはや罪の支配下にいないのです。むしろ、キリストの支配下にある。従って、聖書は12節に語るのですね。
従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。
人間は、欲望と言う難しい問題があります。その欲望は、楽なほうに楽なほうにと、わたしたちを追いやるのです。その欲望は、神からわたしたちを離し、遠ざけようとします。
日曜日? 教会? どうしてそんなところに行くの? 疲れているのでしょう? 自分を楽しませ、リラックスさせたら・・・? そんな声が聞こえてきます。
日曜日は安息の日です。神を礼拝する日です。それは力を与えられる日でもあります。エネルギー補給の日なのです。車が数百キロ走って、ガソリンを補給しなければエンジンストップして動かなくなるように、わたしたちも一週間働いて、こころのガソリンを補給しなければ心は感動も、感謝もなくなってしまいます。ひからびてしまいます。心のエネルギー、魂の栄養、力が必要です。どこでそれを補給できるか? どこでそれが与えられるのでしょうか? それは神から与えられる力です。この世の何ものによっても与えられず、満たされることがない、神からのみ与えられる霊の力です。それは愛であります。神の愛という霊的な力、エネルギーを受けるのです。
これに対して、この世の力は、欲望です。欲望がわたしたちを駆り立てます。神から離れるように、神から引き離そうとわたしたちを駆り立てるのです。
そして、欲望はエスカレートします。それだけで留まらない。一つの刺激は、次にはもっと大きく、強い刺激を受けないと興奮しなくなります。そして、その欲望はついには、わたしたちを萎えさせ、いのちを奪い、滅ぼしてしまうのです。これが罪の正体です。
クリスチャンはそういう欲望に従ってはならない。自分の身体は神のものであるから(キリストと一体なのです)、罪に委ねてはならない。罪の支配にあってはならないのです。
2.日々献げる信仰
わたしたち人間は弱い存在であります。ゆえに、本来、罪の誘惑に陥りやすいものであります。そこで、自覚的な信仰をもって、罪に打ち克つことが必要です。
主の祈りを毎朝唱える。聖書を読む。讃美する。神との交わりを欠かさない。日曜日の礼拝はそのために大きな力です。勝利の秘訣です。
13節
あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。
この13節には二つの道具が示されます。
一つは、「不義のための道具」
二つ目は、「義のための道具」
道具とは、わたしたちのからだです。五体ですね。四肢五体といいます。両手、両足、胴体など、全身のことですね。そして、それをコントロールするのは、わたしたちのこころであり、意思の力です。何に使うかによって、わたしたちの人生は大きく変わります。人生全体を転換し、変えることができるのです。
不義の道具とは、12節にあるように欲望に身を任す生き方です。それを罪といい、罪に支配されていること、罪の奴隷と言います。
それに対して、義の道具とは、神の栄光をあらわす生き方をさします。
ギリシャ語で「道具」という言葉「ホプラ」です。辞書を引くと、①武器、武具、武装 ②道具、器具の意味があります。
現代において最大の武器は核武装があります。大陸間弾道ミサイルなど戦争の道具です。それは、平和を脅かす武装です。戦争、憎しみ、争い、殺人、破壊の道具です。破滅ですね。
国家の権力と支配の象徴です。それは他国への脅威を与え、恐怖心を与えるものです。死の道具ですね。
それに対して、義の道具は愛の武装ということができます。平和、祈り、賛美、いやし、人を活かす道具です。いのちの道具と言ってもよいでしょう。最大の道具は十字架です。
3.何を献げるか。
どちらを献げるか。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。
ローマ書12章1節ですね。
聖なるもの、生けるものを献げる。それは、穢れたものではない。死んだものではない。
生きているものです。それを神に献げるのです。
わたしたちの人生は、何かに自分自身を献げる人生です。仕事は、自分自身の人生の大半を献げるものです。結婚も同じです。自分自身をパートナーに献げているのです。子どもが生まれると、子どものために自分自身を献げます。テレビを見る数時間は、その時間をテレビに献げているのです。読書、旅行など、時間とお金を献げます。献身なのです。それは価値観の問題でもあります。価値と見合う同等のもの、自分自身を献げているのです。
一番大切な価値は、いのちです。いのちを養うために時間とお金(財、宝です)を献げるのです。いのちは、神からいただいたものであります。
信仰は、従ってわたしたちが毎日曜日献げる礼拝は、そのことの週ごとの確認であります。天国にいたるまで、そのことを続けるのです。
4.恵みの下に生きるという信仰
このことを続けていくときに、14節の言葉が実現し、わたしたちの生活の力となります。
罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。
このことを考えるとき、本当にわたしたちは恵みの下に生きているだろうかと考えます。恵みの下に生きるとは、罪に支配されない生き方です。それは、どういう生き方だろうかと考えます。
わたしは、愛することだと信じます。神の愛に生かされている。その愛を受けたものとして生きるのだと。
先ほど、献げると申しましたが、献げることの具体的なものは、愛です。愛は、自分自身を与えることです。具体的には、時間です。それは自分の身を削ることでもあります。ろうそくでそのことを譬えることができるでしょう。ろうそくは、その炎は時間がたつと、ろうそくの本体は先細りし、ついには消えてしまいます。わたしたちの人生も同じです。時間がたてば亡くなってしまいます。与えられた時間、寿命ですね、その時間を誰のために使うか? 何のために使うか? それが身を削るということではないかと思います。
ただ一つ大切なことは、イエス様は、わたしたちのために十字架にかかり、34年という生涯をわたしたちのために身を削られたのです。そのお手本を示されたのです。
福音を信じ、永遠のいのちを得たわたしたちは、もはや、もてあます事のない時間をいただいいています。その時間を、神を讃美すること、祈ること、そして家族や隣人のために使いたいと思います。それが一番の恵みであり、真の安息となるのです。
野口英世氏のことは皆さん、ご存じのことですね。千円札の肖像です。
1876年(明治9年)福島県会津若松市で生まれました。貧しい農家に生まれ、1歳で左手に大火傷を負いましたが、そのハンディキャップを克服してほぼ独学で医師となり、さらには細菌学者として一時は世界的な名声を得たとあります。
その英世青年は19歳の時に、会津若松教会で洗礼を受けます。その後、アメリカに渡り、細菌学者の道を歩むのですが、その研究の過程で大きな業績をあげ、1914年38歳の時から3度ノーベル賞候補になるのですね。今のノーベル賞受賞者の年齢を見ると、若いですね。しかも、東洋人です。差別、偏見に満ちた時代でした。100年以上も昔のことです。
しかし、野口英世さんは、若い時は、欠点があったのです。金銭面のだらしなさはピカ一でした。借金をしては放蕩のし放題。まさに放蕩息子だったのです。しかし、彼は変えられたのですね。高い志を持ち、伝染病の研究に励んだのです。研究のために世界中をめぐり、ついにアフリカ、ガーナにて51歳で亡くなります。黄熱病でした。
野口英世のことば、「人類のために生き人類のために死す」でした。
不義の道具ではなく、義の道具として自分自身を献げたのでした。
わたしたちは、野口英世氏のように人類に貢献するほどではありませんが、自分のからだを神に献げ、神の栄光を現す生き方ができると思います。神の恵みによってそのように生きましょう。
祈ります。