2021年11月7日 聖霊降臨節第25主日礼拝

2021.1107.Syuuhou

聖 書  テサロニケの信徒への手紙 一 5章16~23

説 教  最高の人生を送る秘訣

 「チイロバ牧師」として有名な榎本保郎牧師の著作の中にこういうところがあります。「クリスチャンの顔」という題であります。『クリスチャンだと言いながら、何か浮かぬ顔、パッとしない顔、涙の顔が多いことでしょう。神様の愛に委ねきって、パッと明るく輝くことができないものかとつくづく思います』 

 こういう書き出しから始まります。

「ほっといてくれ、生まれつきだ」

そういう反論が出てくるかもしれません。

今朝、礼拝に来られた皆さんの顔はどうでしょうか? 鏡に写した自分の顔をご覧になられたと思います。どうでしょうかね・・・? イエス様に会うために、礼拝に行く。

デートの時なら、うきうきして、それなりの身だしなみ、顔を繕うでしょう。神様とデートするのです。

 榎本牧師の本は続きます。

「ある新任牧師がある教会に赴任することになりました。教会の役員が駅に出迎えました。しかし、牧師の顔を知らないのです。『どうしよう』と思っているうちに、列車が着きました。降りてくる一人ひとりを注意深く見て、牧師らしい人を見つけました。『あの人に違いない』。そう思って、そばに走り寄って『牧師先生でいらっしゃいますね』と言いました。しかし、そう言われた人は怪訝そうな顔をして、『いや、わたしは長い間、胃を患って入院していた者です。ちょっと、所要があって家に帰ってきたのです』と答えたということです。教会の役員は慢性の胃炎患者を牧師と間違えたというのです。

 このエピソードは極端であるかもしれません。暗い顔をした人の代表がクリスチャン、しかも牧師である。ブラックジョークですね。

 イエス様のお顔はどうだったでしょうか? 輝きと明るさ。苦行僧のような顔ではなかったと思います。顔の表情はいろいろあります。百面相と言いますね。

 気難しい顔、苦虫を噛んでいるような顔、神経質で険しい顔、いつも不幸を背負っているような顔、いらいらして落ち着かない顔、不安で目つきが落ち着かない顔、悩みと憂いに満ちた顔、頼りない顔、寂しそうな顔。緊張し強張っている顔。逆に表情がない顔もありますね。冷たく、氷のように感情を表さない。

 赤ちゃんの顔はどうでしょうか? 赤ちゃんを見ていると、なごみますね。

 本日の聖書、テサロニケの信徒への手紙 一 5章16節  有名なところです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて、感謝しなさい」

 仙台青葉荘教会の創立100周年記念誌に教会員の方々の愛唱賛美歌、愛唱聖歌、愛誦聖句の欄があります。それを読んでみると、いろいろありましたね。

その一つに、やはり今日の聖句がありました。テサロニケの信徒への手紙 一 5章16節が愛誦聖句にされている愛兄姉が多いのですね。

 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて、感謝しなさい」

しかし、いつもどんな時に、喜んでいるかというと必ずしも、そうとばかりは言えないですね。葬式に参列して、わたしはクリスチャンだから「いつも喜びなさい、感謝しなさい」とあるから、亡くなったご遺族に挨拶した際に「おめでとうございます。おおいに喜びます。感謝します」なんて言ったら、怒られますね。『無礼な!!』というわけです。

キリスト教は野蛮な宗教だと思われます。人の感情を配慮しないと伝道になりません。

 病気で苦しんでいる人に「喜びなさい、感謝しなさい」といえば、恨まれてしまいます。

時と場所を考えなければなりません。悲しい時は悲しいし、泣きたいときは泣いてしまう。感情を押し殺して、無理に強がることはない。

聖書は、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」とあります。

「最高の人生を送る秘訣」。こんな説教題の看板を教会の前を通る人が見て、むっとする人がいるかもしれません。いろんな人たちが教会の前を通ります。苦しんでいる人、将来のことであれこれ悩む青年、就職活動100社受けて全部落ちたという学生を知っています。家族の者に相手にされず、邪見に扱われている高齢者。「人の気も知らないで・・・」 そう思われるかもしれません。

「最高の人生」の反対は、「最悪の人生です」。それは、「こんな人生を送るなんて、なんてわたしは不幸な人間なのだろう」ということですね。「ああいやだ。辛い、苦しい。苦痛だ、絶望だ」ということになります。

では、何が嬉しいのか、よろこびなのか、感謝なのか。

1.あなたは赦されている

 生きることのやましさ、苦しみを持っている人。かつて犯した罪、人を傷つけたこと。裏切り。夫を、妻を、両親を、友人を。こころに大きな重荷を負って、生きていることが辛い。そう言われる方。あなたの過去は、イエス・キリストがすべてご存知のことなのです。

詩編139編に次のような言葉があります。

 主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる。

 神はわたしたちの心にあること、行動、過去の罪、咎をことごとく知っておられるというのです。神から逃げることはできません。良心もありますね。

 しかし、神はその罪を断罪する方ではありません。罪を赦し、けがれを潔めてくださるお方です。しかし、ひとつだけ大切なことがあります。それは自分の罪のためにイエス・キリストが十字架につけられ、死なれた。しかし、三日目に復活された。そのことを口で告白し、信じることで、救われるのです。

 また、ローマの信徒への手紙に次のような言葉があります。

「罪が支払う報酬は死です」(6章23節)

死とは、ここでは滅びを意味しています。しかし、次の言葉に続きます。

「しかし、神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストによる永遠の命なのです」。

2.あなたは愛されている

 生きていることに自信がない。喜びがないという人。不平、不満をいつも心に持っている人。自分は正しく評価されていないと腐っている人がいます。

 愛するというということは、受け入れられているということです。自分の存在が受け入れられている。

「お前なんか、必要でない、生まれてこなければよかった」。そう、言われることほど悲しいことはありません。心無い親、兄弟、友人から言われることがあるかもしれない。しかし、神は決してあなたを捨てることはない。

 神はいつもわたしたちに手を差し伸べておられます。その手を握り返すだけでいいのです。御子イエス・キリストの十字架につけるまでに、神はわたしたちの罪を赦し、愛されておられるのです。

3.生きていることがうれしい。喜びである。

 罪が赦され、愛されていることが分かれば、誰でも嬉しくなります。明るくなります。

わたしたちは有り余るものを神から受けているのです。そこからは、こころから感謝が出てくるのです。

 『生きているのがうれしくてなりません』

 3か月の死を宣告された女性の言葉です。病気と戦う内に、夫と子供たちの愛と神の恵みに満たされて、闘病生活の間、自分が生きているということに喜びを見出したのです。

そこでは、死は神の国に至る門であること。そして、その門に入ると、死にて蘇られ、死に打ち勝たれたキリストがおられ、永遠の命を与えてくださることの信仰の喜びがあるのです。

4.「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて、感謝しなさい」

 この聖句を愛誦聖句として持っていること自体、すでに最高の人生を送っているのです。

今日は、召天者記念礼拝です。前に掲げられた写真ですね。遺影ですが、この聖句を愛誦とされた。すでに、最高の人生をキリストにあって生きてこられたのですね。そしていまは、神の国の永遠の命にあって、主のお顔を仰ぎ見ておられるのですね。

 心の清い人々は幸いである。その人たちは、神を見る。

まことに、すでにこころをきよめていただき、神の顔を、顔と顔を合わせるように見ておられ、語りあっておられるのです。

 ハレルヤ!

祈り

昨日も今日も変わることがない主イエス・キリスト様が共にいらっしゃる。

これがいつも喜び、感謝し、祈る秘訣です。