聖 書 出エジプト記3章1~6節
説 教 炎の声
新約聖書、マタイによる福音書5章8節に「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る」とあります。イエス様のお言葉ですが、神様を見ることを願い、こころを清くしたいと思う人は歴史上大勢いたことです。
わたしたち信仰者は神様にお会いしたい、お姿を拝したい。神様の声が聴けるなら聴きたいと願います。そう、心から願います。これは古今東西、宗教という信仰の世界にあって、信仰者または非信仰であっても同じことではなかろうかと想います。
本日の聖書、モーセに神様が現れるところです。聖書は信仰の書です。聖書を通して、わたしたちは神様の存在を知り、天地万物を創造された方であることを信じています。そして、独り子イエス・キリストを十字架につけるほどに、わたしたちを愛してくださっておられることを信じています。
その神様が現れる。そのように聖書に書かれている。そのことを真理として、真実として信じているのです。これがクリスチャン、わたしたちです。
1.神の顕現
神は人間の思いもよらぬ時、思いもよらぬ場所で現れる。顕現されるのです。神がご自身を現わされた相手はモーセです。誰に対しても神はご自身を顕すことはなさらない。特別の選ばれた人ですね。それが、モーセです。モーセについては、1章と2章で説教しました。エジプトで奴隷の子として産まれましたが、エジプトの王女の養子になりました。40歳までです。その後、同胞のユダヤ人を助けるためにエジプト人を打ち殺したことが発覚し、エジプト王に追われる身となり逃亡します。ミディアンの地に逃れたと聖書にあります。そこでミディアンの祭司の娘と結婚し、二人の子をもうけます(出エ18章3節)。それから40年たちました。すでに80歳になっていたのです。人生も先が見えた。後期高齢者になっているのです。まだまだ血気盛んと申しますか、力があり、残っている。そういう壮年の時期を過ぎているのです。そのモーセに神は現れられたのです。顕現されたのです。
場所は、ホレブ山です。神の山とあります。1節です。お読みしましょう。
モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。
祭司エトロは、モーセにとっては舅ですが、エジプト逃亡から40年の間、このエトロの羊を飼うしごとをしていたのですね。雇われの羊飼いです。伯父ラバンの羊を飼うヤコブのようですね(創世記29章)。エトロは祭司であり、羊飼い。エトロは2章18節では、レウエルとなっています。
2.顕現の目的
神の顕現には目的があります。出エジプト記2章23~25節ですね。重労働で奴隷のような過酷な労働であります。まさに奴隷のくびきです。それゆえに、助けを求める叫び声が神に届いたのです。その嘆きのうめきを神は聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされ、イスラエルの人々を顧み、御心に留められたのです。
モーセがエジプトから逃れて40年たちました。その間、イスラエルの苦役はますます重くなっていたのです。神はイスラエルの叫び、うめきに対して救いの手を伸べられたのです。イスラエルの助けを求める祈りは聴かれたのです。
こうして、神は立ち上がられたのですね。イスラエルの救いのために。
しかし、神の救いの御手は、独特です。そこには神様のご計画があります。み旨ですね。すぐに神の全能の御手をもって、超自然的な神の力によって即座に、イスラエルを救おうとはなさいませんでした。そこに神の計画があるのです。神が顕現される時、新しい歴史が始まるのです。それは人を通して、人間の弱さや無力を通して、神はご自身をあらわされるのです。
神は弱い人間とともにおられ、無力な人間とともに救いを行われるのです。そこには長い忍耐と待ち望みが必要です。その忍耐と待ち望みが出エジプト記40章全体に亘って記されています。そして、レビ記、民数記、申命記と続くのです。神のみ旨とご計画です。ひいては、旧約聖書全体であり、新約において神の子イエス・キリストの十字架と復活、昇天、再臨、世の終わりというカタストロフィー。聖書全巻にわたる神の啓示として示されるのです。
聖書は、神様の目的達成の過程が記されています。プロセスです。わたしたちが、聖書のひと段落ごとに意味を考え、説教を聴く。その中で、全体的に神のみ旨を知り、神の救いを確信するのです。
3.燃える柴の意味
神は燃える柴の炎の中に顕現されます。
2節
モーセが見たのは、燃える柴です。しかし、炎の中に主の御使いが現れていました。モーセは御使いを見たとは書いてありません。モーセが見たのは、「柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない」ということです。長い間、モーセは柴を見つめていたのでしょうね。
2節では、「御使いが現れた」とありますが、4節には、「主は、モーセが道をそれて見に来るのをご覧になった。神は柴の中から声をかけられ、『モーセよ、モーセよ』と言われた」とあります。6節までを読むと、神がモーセに語りかけておられます。
目には見えない神様の臨在が人間に知覚できる現象があります。シャハイナ・グローリーと言われています。聖書には、光、火、炎、雲、煙、雷などがあります。昼は雲の柱、夜は火の柱ですね。雷も有名ですね。
今は、神様は柴が燃えているその炎によって、ご臨在を現わされたのです。
わたしたちも時に、主のご臨在を感じる時があります。ここに主がいらっしゃる。現実に感じる。霊であられる神様の憐れみです。仙台青葉荘教会の礼拝堂に臨在されておられる。そのことを信じます。神の臨在と神の現臨がある。
神様は言葉を通して語られます。音です。静かな御声、雷のような激しい音。使徒言行録2章1節からでは、「激しい風のような音が聞こえ、家中に響いた。そして、炎のような舌。炎となって」とあります。
そのように、目には見えない神様が、いろいろな事象をとおしてご自身を顕されるのです。
今日の説教題は、「炎の声」ですが、炎も声も神様の臨在の現れです。本日の説教題は、「炎の声」としましたが「炎の中から声がした」とありますから、本当は「炎からの声」なのですね。
4.神の聖
神様の臨在があるところ、そこに神の聖があります。神は聖であられます。聖とは、分離、世とは離れている。しかし、神は聖であり、同時に世にかかわっておられるのです。神が創造された世界、人間の世の中。無関心ではない。神は人間に対して友となるように願っておられるのです。
愛の対象である人間
聖であるゆえに、神はご自身の聖によって導かれる。聖によって全うされる。聖なるわが名によって。引き受けられる。
その声は、5節そして6節とあります。「聖なる土地」「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」とご自身を啓示されるのです。
神がおられるところ、そこに聖なる臨在があるのです。足から履物を脱ぐ。
神は絶対的に聖であられます。見ると死んでしまう。そのような聖なる方です。その神がご自身を顕される。それは死ではなく、生かすためです。歴史を動かし、変えるために、ご自身を顕されるのです。神は人間を媒介として、人間を用いて、神のご計画を実現されるのです。これは、不思議です。秘められたご計画なのです。
わたしたちも神の声を聞くことがあります。みなさんはいかがでしょうか? 神の聖なる臨在に触れることがあります。民族、国民的な歴史を変えるほどではありませんが、わたしたち個人の内なる変化として、神はご自身を顕されることがあるのです。聖化です。
聖書の登場人物たちは、神の臨在に遭い、神の御声を聴いたのです。
それは新しいことをなすために。神のみ旨を行うためです。新しい歴史のはじめ、時代の展開の時、神は人を通してご自身のみ旨を実現するように導かれます。その人に聖霊の賜物を与え、能力を与え、支えられるのです。モーセ、ヨシュア、ギデオン、ダビデとイスラエルの歴史を通して、神は人を起こされたのです。民族の起こり、変化、個人における変化、共同体における変化があるのです。
それはリバイバルです。聖霊なる神様のご自身の聖なるお名前によって起こされる歴史の新しい変化であり、展開です。
神様は人間の救いを求める祈りを聞かれますが、その時は神様のみ旨にあるのです。はじめに忍耐と待ち望みと申しました。この時のために、信仰者は祈り、待ち望み続けるのです。モーセが現れるために、400年間の時を要しました。
出エジプトの出来事から、イスラエルが統一されるダビデ王朝まで200年を要しました。
イエス様ご受肉されるまで1000年の時が必要でした。神はご自身のみ旨によって、歴史を変え、ご自身が求められる人間を起こされるまで、神の時を指定されるのです。
キリスト者は忍耐し、諦めることなく神の時を待ち望みました。その中で、13世紀にはフランシスコによって、信仰のあり方を変えられました。16世紀になりルター、カルヴァンによって宗教改革を起こされたのです。
長いすそ野を築き上げる営み。これが教会の使命であり、意味でもあります。この信仰と祈りを何世代も継続していくとき、神は、モーセのような指導者、パウロのような伝道者を起こされるでしょう。
その前に世の終わり、主イエス様の再臨が来るかもしれません。
それでも、教会は祈り、信じていくのです。