聖 書 ローマの信徒への手紙5章12~21節
説 教 いのちの回復
クリスチャン作家の三浦綾子さんが小説家としてデビューしたのは、朝日新聞の懸賞小説に入選した「氷点」からでありました。1963年ですね。「氷点」は、人間の持つ原罪というテーマを真正面から書いた小説として注目されました。この「氷点」から三浦綾子さんは、クリスチャン作家として日本の文学界に大きな足跡を残されたのは、皆さんご承知のことです。
1.原罪と死
さて、原罪とは創世記1~3章に記されている神によって創造された人間アダムとエバの罪を指しています。
創世記の記事は、皆さんよくご存知のことと思いますが、神は天地万物を創造されたとき、創造の最後に土のちりで人間を造られました。これが最初の人間アダムです。そして、アダムのあばら骨で女を創造されました。これがエバです。
アダムとエバは創造の神のもとで生きるという恵まれた状況に置かれ、創造の神と被造物である自然との完全な調和を保って生きてきました。これがエデンの園で、神と人間と万物の理想の楽園でありました。ちなみに、アダムとエバが罪を冒して楽園を追放されましたが、ここに復帰し、神との関係、自然との完全な調和へと回復するのが聖書の目的であります。神の愛の表れ、神の救いの計画と言ってもよいでしょう。
少し先走りましたが、アダムとエバはこの楽園で何不自由なく生活できたのですが、神は一つだけ条件を提示されます。それは、園の中央に生えている善悪の知識の木の実を食べてはならないというものです。
「食べると必ず死んでしまう」(創世記2章17節)と神は言われます。
この後に、神はアダムのあばら骨から女エバを創造されるのですが、アダムはエバにそのことを告げ、神と同じように「善悪の木からは食べてはならない」と伝えたでありましょう。
創世記3章にくると、蛇であるサタンの誘惑の記事となります。エバを誘惑するのです。1節からお読みします。
主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
こうして、神が食べてはならないと禁じられた言葉を人間は破ったのです。その結果、神はもう一つの園の木であるいのちの木からも勝手に食べて、「永遠に生きるものとなるおそれがある」ことを案じられて、二人を楽園から追放されました。
これが失楽園と呼ばれている物語で、この結果、人間は死ぬものとなったのです。
ここから教えられることは、もともと人間は神と共に生きていたこと。人間は楽園であるエデンの園に置かれたものであったけれど、一定の条件があったこと。それは神の秩序と言ってもよい条件で、神の言葉を守り、従う、つまり従順であるという条件です。その範囲で神と人間との関係は円満であったということです。
しかし、ひとたび、人間が神の言葉に叛き、従順でなくなったとき、神との関係が破れ、崩壊したのです。これが罪であり、その結果、人間は死ぬべきものとなったのであります。
2.二つの死
次に考えられるのは、アダムとエバが蛇の誘惑に遭わないで罪を犯さなかった時、二人は楽園で永遠に生きておられたのかということです。死ぬことはなかったのでしょうか。むしろ人間の罪と死によって、歴史がはじまったのです。罪と死がなければ、聖書は必要なく、わたしたちが今日手にするような厚さはないでしょう。
また、「死」を知らない人間に「死ぬ」ことを罰として神は科せられます。
そのことを思うと、死には、二つの死があるのではないかと考えられます。神と共にある死ということと、もう一つは神から離れた死ということです。神から離れた死は罪の結果であり、それは永遠の滅びです。しかし、神と共にある死は永遠のいのちにつながる死で、そこに真の安息と神につながるいのちがあると信じるのです。
3.いのちの回復
原罪とは、このアダムとエバによってもたらされた罪の結果としての死を、その子孫であるすべての人間が背負っていることを言います。神から離れた人間の悲惨さ、孤独、病、死の恐れが罪の結果として人間を襲います。しかし、神との交わりを回復すること、調和を乱され、壊された自然との関係をもとに戻すこと。その計画を神は用意されているのです。
その計画こそが、イエス・キリストであり、十字架の贖いと救いであります。
そのことを聖書は、ローマの信徒への手紙5章12節以下でまことの救いとは何かを提示しています。
このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
15節
しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。
アダムとイエス・キリストとを対照的に比較しながら、キリストに現された恵みの賜物を聖書は感謝と喜びをもって著しています
その比較し対照しているものは、以下の通りです。
アダムによってもたらされたもの キリストによってもたらされたもの
罪と死の法則(罪が世に入り、 いのちの法則、永遠のいのち(21節)
罪によって死が入り込んだ)12節
裁き、有罪の判決(16節) 無罪の判決(16節)
義とされ、命を得る(18節)
不従順によって罪人とされる(19節) 従順によって正しい人とされる(19節)
ここで語られるのは、アダムは罪によって受け継がれた罪の系譜、裁き、救いようのない滅びはキリストによって贖われたということです。それを聖書は、恵みの賜物と言っています。特別の恩寵なのです。
4.連帯ということ
ここでアダムが犯した罪をなぜ、アダムの子孫が負わなければならないのかという疑問が出てきます。遠い昔のご先祖様が犯した罪を何千年後の人間がなお背負っているのかという問題です。しかも、アジアの日本人であるわたしたち。
聖書は、それを罪の傾向性、罪の遺伝子として考えているのです。
日本は明治維新以来の富国強兵策を断行し、日清、日露戦争に勝利し、韓国・朝鮮を併合し、第一次大戦によって中国侵略の足がかりを得ました。そして、第2次大戦によって韓国・朝鮮、中国や東南アジア諸国に対して大きな罪を犯し、禍根を残しました。
戦争が終わって75年以上たちましたが、その犯した過ちは、完全に拭い去られてはいないのです。むしろ、関係各国の多くの人の心に深い傷として残り、償いをしなければならないでしょう。ドイツも同じです。イスラエルやポーランド、ヨーロッパ諸国に対して、償いをしていくのです。
そういう形で、日本もドイツもともに、世界に向かって平和の器として仕えていくのだと思います。これが日本人とドイツ人の連帯責任ということです。日本人が韓国や朝鮮、中国に行くときは、そういう意識で謙虚になる。日本人の代表として見られるのです。
クリスチャンも同じです。わたしたちはアダムの末として、罪の傾向性を持ち、滅びを免れなかったのです。しかし、キリストの十字架によって罪赦され、永遠のいのちを約束されるにいたった。恵みと義の賜物をいただいたのです。そのことを証しする責任を担うのです。それが伝道ということですね。
「氷点」で、母夏枝のいじめに遭っても、けなげに、前向きに生きている陽子が自分の出自を知った時、人間の力ではどうしても解決できないことがあるのを知ります。能力や知力、心構え、カウンセリング的手法では解決できない、人間存在の一番深いところにある心の問題の解決です。
三浦綾子さんはそれを原罪とするのですが、答えは見つかっています。それは、キリストにあるいのちなのです。キリストにおいてこそ、いのちは回復され、死はキリストに結びつくことによってこそ、神の祝福されたいのちへと変えられるのです。
10月に入りました。長い緊急事態宣言、まん延防止等重点措置にあって対面での礼拝は休止、ネット配信のみでyou tubeの礼拝動画を視聴してきました。11月に入ると召天者の記念礼拝を行います。今年、おふたりの愛する兄弟姉妹が召されました。先に召された信仰の先輩たちを記念します。彼らは、信仰によって救われ、神のもとに生きている。これが神と共に生きた人の死であると思うのです。
ラザロの復活の時にイエス様が言われたように、ヨハネ11章25~26節
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。
そのような死です。「死んでも生きる」。これが神とキリストにあるいのちです。
わたしたちは、それをすでに与えられています。これが神の恵みの賜物なのです。
祈ります。