2021年9月26日 聖霊降臨節第19主日礼拝
説教メッセージ
わたしたちは待つことが苦手です。何事にも神の時があることは、知っています。コヘレトの言葉にも、ある通りです。コヘレトの言葉3章1~2節をお読みします。
「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時」
8節「愛する時、憎む時、戦いの時、平和の時」
時は、神が定め、決断される。時は、神の主権の下にある、ということです。それは、わたしたち、神様を信じる者の信仰でもあります。
そう思っても、そう信じていても、なお、わたしたちは、神の時を待ちきれず、自分自身で時を支配しようとすることがあります。神の御業を待ちきれず、自分の時を優先するのです。それは、神の主権を侵すということです。いわば、不信仰でもあります。
(サムエル記上13章 ペリシテ人との戦いを前にして、サムエルを待ちきれないで、自らいけにえを捧げたサウルの失敗。王権がサウルから取り上げられ、ダビデへと移った。)
さてモーセの生涯は、三つに分けることができるでしょう。
1.王女の子から殺人者、逃亡
復習ですが、2章1~10節のところですね。
生まれてから3か月目にパピルスの籠に入れられてナイル川に流されます。そこで、水浴びに来ていたエジプトの王女に拾われて養子となる。しかし、大きくなるまで乳母のもとで育てられます。乳母はモーセを生んだ実母でもあります。そこでユダヤ人として育てられ、大きくなって王女のもとに連れていかれて、王女の子となるのですね。
2章11節以下では、モーセは同胞のユダヤ人を虐待しているエジプト人を殺害。次の日、ユダヤ人同士がいさかいをしているところで仲介し、ユダヤ人の支持を受けられなかったのですね。14節には次のように記されています。
「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしをも殺すつもりか」
モーセは、ユダヤ人は自分の同胞だと思い、親しみを感じていたのですね。しかし、モーセは王女の子であり、エジプトでは高い身分でもあります。ユダヤ人は、モーセを拒否したのです。
そのことがエジプト王の知るところとなり、モーセを殺すように家臣に命じたのです。モーセはミディアンの地に逃亡します。この時、モーセは、40歳になっていました。
(使徒7章23,24節)
2.ミディアンの地でのモーセ
モーセはミディアンの祭司レウエルのもとに身を寄せます。祭司には7人の娘がいましたが、そのひとりツィポラと結婚、ふたりの子をもうけます。
21節「モーセがこの人のもとにとどまる決意をしたので、彼は自分の娘ツィポラをモーセと結婚させた。彼女は男の子を産み、モーセは彼をゲルショムと名付けた。彼が、「わたしは異国にいる寄留者(ゲール)だ」と言ったからである。
モーセにとって、ミディアンの地とは冷静になり、神の時が来るのを待つ時期です。神の訓練でもあります。ここで家庭を設けるのですね。家族を持つ。羊を飼うという仕事がある。安らぎです。そしてミディアンの地での社会的な責任を持つのです。
ミディアンに逃亡して、雌伏の40年。その間、モーセは忍耐を学んだことでしょう。80歳になっていました。使徒言行録7章30節
3.神の時が来た。モーセの選び。
23節「それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ」。
エジプト王の死が合図。符牒です。モーセの命を狙っていたファラオの死によって、新しい展開です。神の時、神の救いの時が始まるのです。そこから神はご自身の計画を実行するために、神とモーセの出会いの場が備えられます。モーセを指導者として立てられたのです。
ここでは、アブラハムを想起します。創世記12章1節 アブラハムは75歳で神からの
召命を受け、旅立つのです。モーセ 80歳になり、神の声を聴き、召命を受けるのです。
神の主権がここにあります。神はイスラエルを救うご自身の計画を実行するために、モー
セを選び、指導者として立てられたのです。
もう一度23節からお読みします。
「労働」は、口語訳では「苦役」。ほかの訳では、「労役」、「重労働」と訳されています。奴隷状態ですね。激しい強制労働を課せられたのです。
23節「イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた」とあります。助けを求める叫びは、神に届いたのです。神はその嘆きを聞き、「神はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた」のです。
神との契約は反故になることはありません。「顧み、御心に留められた」のです。
アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神としてのご自身を現わされます。啓示ですね。
アブラハム契約から400年が経過しています。
創世記15章13、14節をお読みしましょう。
主はアブラムに言われた。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く」
(ガラテヤ3章17節)
人間が忘れてしまったような時であっても、神は覚えておられるのですね。アブラハム、イサク、ヤコブ3代に亘って祝福を与えられた神は、その祝福を覚えておられるのです。
祝福は消えることはありません。なくなることはないのです。キリストのゆえに。
これから出エジプト記は3章に入り、神はモーセに対して、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神としてご自身を啓示されます。この三人に現わされた神の祝福は、400年後にモーセを通して成就されるのです。わたしたちは、これから出エジプト記3章に入り、モーセを通して行われた神のみわざを知ることになります。神の恐るべき審きと救いのみわざです。
この神の主権と統治が出エジプト記、レビ記、民数記、申命記と4つの書に表わされます。旧約聖書の核心的な出来事と信仰です。その中心は、過越しです。神は羊の血を通して、贖いを示されます。これは御子イエス・キリストの予表であり、型となります。
モーセから200年後、ダビデを通してユダ王朝、神殿建築、そしてバビロン捕囚という歴史的変遷を経て、ついに神の子イエス・キリストの降誕と十字架・復活という神のみこころを現わされるのです。
アブラハムからモーセまで400年。ダビデ王国からイエス様まで実に1000年以上の年月が経過するのです。神の救いのみわざが実現するのです。
現代人のわたしたちキリスト者の時代。リバイバルも同じではないか。そう黙想することです。2000年間のキリスト教の歴史を紐解くと、リバイバルの歴史は、200年、300年、500年間隔でリバイバルが起こっているのです。
フランチェスコ、ルター、ウェスレーと聖霊なる神様は働いておられる。いまもなも、わたしたちは神の時を待つのです。忍耐をもって、祈り、信じるのです。
主の再臨を待ち望む信仰をもって、生ける神様、聖霊の豊かな恵みと注ぎを受けるのです。これは真実でもっとも大切なことです。
祈りましょう。