聖 書 ローマの信徒への手紙5章6~11節
説 教 罪びと、敵のために命を捨てる
本日は、「罪びと、敵のために命を捨てる」と題して説教します。
敵を愛しなさいとイエス様は、言われました。わたしたちは、何年もクリスチャンをしていますが、どうでしょうか? 敵を愛することができるでしょうか? 敵とまではいかなくても、いやな人、うまが合わない人がいるものです。憎悪や恨みを抱く相手がいるかもしれません。そのような人に対してどうでしょうか?
また、「主の祈り」にも、
「我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と、いつも祈っています。
敵を愛することも、憎む相手を赦すことも、これは大変なことです。
今年8月24日に東京・白金高輪駅で発生した硫酸事件がありました。記憶に新しい事件です。お読みになった方もいらっしゃるでしょう。地下鉄の駅で硫酸をかけられた青年24歳。犯人は27歳 大学のサークルで先輩後輩の関係でした。原因はため口を利かれたため、いさかいになった。ため口というのは、年下の者が年長者に対等の話し方をすることと辞書にはあります。「ため口をきく」「ため口をたたく」といいます。先輩であり、年長者である容疑者は、その口の利き方に我慢できなかったのですね。それでいさかいが起こった。
その場で解決しなかったのですね。その場でごめんなさいと言い、和解していれば済んだものでしょうが、あとあと、憎しみが増大し、ふくらみ、今回の事件につながったのでしょう。
牧師として、わたしはいろいろなところから相談を受けることがあります。時に、知らない人から電話で相談を受けることがあります。これも伝道だと思い、知らない人からの電話相談もお聞きします。また、お会いして話を聞くこともあります。
「わたしは、どうしても赦せない人がいます。」
そのように言う人に何人かに出会ったことがありますし、相談を受けたこともあります。
「そのような、赦すことができない経験がおありなのですね。」
そう訊きかえしますと、涙声になってしまうのですね。
でも、その赦すことができないでいることは、別の感情に支配されているからなのですね。それは憎しみです。恨みです。この憎しみと恨み、あるいは怒りの感情というものは、気持ちよいことがあります。また、復讐するという快感に支配されていることがあるのです。
愛するということと赦すということは、同じことではないかと思います。コインですね、100円玉の裏表のようなものではないでしょうか?
表が愛だとすれば、裏は赦し。表も裏も一つのコインです。
同じように、憎しみと復讐も同じコインの裏表なのではないかと思います。
こんなことを言うと誤解されるかもしれませんが、神様もある時まではこの怒りと復讐の感情に支配されていたことがあったのではないか。旧約聖書を読むと、神はご自身に対する信仰と従順を喜ばれますが、不信仰者や偶像礼拝者には徹底的な裁きと排除を断言されます。それが律法になります。これは、不信仰者と偶像礼拝者への復讐です。報いといってもよいでしょう。申命記などは、それを祝福と呪いという形で示されています。信じ、従う者には祝福を、偶像礼拝者、神の恩と恵みを忘れた者には、呪いを置くと言うのです。神の怒りは、律法に従わない人への裁きとなるのです。律法それ自体は、従順なものを愛し、不従順、不信仰なものを裁く。その表れなのです。
神の怒りと裁きは人間に向けられるのですが、あるときから神ご自身の内側に向けられます。それが赦しと愛、そして和解の神としての自己宣言になります。これがわたしたちの主イエス・キリストにおいて、表されるのです。
ローマの信徒への手紙5章6節以下をお読みします。
ここに注目すべき言葉が記されています。
6節
わたしたちがまだ弱かったころ、
8節
わたしたちがまだ罪人であったとき
10節
敵であったときでさえ
という言葉です。
弱かったころに、不信心な者のためにイエス様は死んでくださったのです。
わたしたちが強いとか、信頼できるとか、信心深いからではないのです。まさに、不信心であり、罪人であり、敵対関係であったのであります。
よく、すぐに怒る人がいます。瞬間湯沸かし器のように、顔を紅くして憤怒の表情を表し、怒りの言葉を発します。怒りというのは、よく言えば、相手の不正を見逃さない。少しの過ち、咎、罪に対してもほっとけないという気持ちです。
しかし、神はわたしたちの弱さや罪、敵対関係であったときでさえ、ご自身の愛を示されたということなのです。
6節の弱さに対して、キリストは死んでくださったとあります。
8節の罪人であったとき、やはりキリストはわたしたちのために死んでくださったとあります。わたしたちなのです。あの人、ではないのです。あなたのため、なのです。
10節、敵であったときでさえ、「御子の死によって」とキリストの死を言い表しています。
わたしたちの人生において、失敗をします。それは人間的な弱さであり、罪人であったり、人間関係、対人関係において、敵対することもあります。そのような時に、誰がかばってくれるでしょうか。味方となってくれるでしょうか。執り成してくれるでしょうか。一匹狼、孤独はまあいいほうでしょう。しかし、排除され、追放され、のけ者とされる。
神の愛とは、そういう人間的な破れがある社会であっても、教会はそうではない。味方となってくれるところ。心配してくれるところ。執り成してくれるところ。労わり、支え、安らぎと守りがあるところ。光と希望があるところ。愛があるところだと思います。そう信じます。すなわち、いのちがあるところです。
キリストの十字架は、弱さや罪や敵対関係で本来裁かれるべきものであったわたしたちが赦され、和解を受けるところであるのです。和解は無条件であります。条件つきではないのです。もう少しよくなったらとか、成長したら、回心の跡が見られたらではないのです。神の愛は、無条件でわたしたちを解き放つのです。
そこに神の救いがあるのですね。
わたしたちが弱さや罪、敵対関係でもう悩む必要はない。赦されている。救われている。帳消しにされているのです。
ギリシャ語には愛という言葉は4つあります。
- 1. ストルゲー
家族の愛、親が子を愛す、子が親を慕い愛する愛。
ルカ6章32は「罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをする」とあります。
そのような、自然の愛です。
- 2. エロース
俗に言う、エロスです。男女の愛ですね。これはとても大切な愛でもあります。
3.フィリア
友情とか博愛、真実の愛と訳されます。親密な愛ですね。
- 4. アガペー
元々は、慈悲とか強い善意という意味です。そこから、人がどんなことをしても、どんな取り扱いをされても、どんなに侮辱されても、傷つけられても、悲しませられても、憎しみを持たず、その人に対して消えることのない慈悲、善意をもって接し、その人のためになることだけをしようとすること。そのような意味となってきました。
条件付きでない愛ということです。見返りを求めない愛、報いを求めない愛。それがアガペーです。アガペーは、家族の愛のように自然に起こってくる感情ではなく、いわば外の人、敵対するような人に対しても、包み込むような好意と善意です。
そのような愛があるのだろうか? 神の愛こそが、まことのアガペーであり、そのしるしがキリストの十字架なのです。
クリスチャンは成長します。成熟するのです。精神的にも、霊的にも、成熟したクリスチャンとして、神の愛であるアガペーを倣うことができる者へと変えてくださる。
ここに聖霊の助けと導きがあるのです。
ずっと以前のことですが、あるクリスチャン女性の息子さんが事件に巻き込まれて殺されました。彼女は熱心なクリスチャンでした。祈りと賛美が喜びで教会の奉仕、聖書を読むこと、信仰生活のすべてが生きる喜び、張り合いだったのです。それなのに、最愛の息子が殺された。
「神様、どうして? 何故、このようなことが許されたのですか? あなたの許しなくしては、起こらなかった事件です。わたしが不信仰だったのでしょうか?」
そう自問自答し、神に祈り、訴えました。悩みと憂い、苦しみが彼女を襲い、苦しめました。
でもある時から、彼女は、加害者のために祈るようになったのです。「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」。その主イエスの言葉が今こそ、彼女の心を占め、迫ってきたのです。それから、息子を殺した殺人者に手紙を出しました。苦しい胸の内を書いて送りました。息子を失った哀しみと殺人者への憎しみ。しかし、自分はクリスチャンであるゆえに、あなたを憎いけれども、赦しようにと主イエスの言葉が自分に迫ってくること。
それから、殺人者との手紙のやりとりが始まった。いつか、加害者もこのお母さんの手紙で神を信じるようになった。殺人者と殺されたお母さんとの心が交流するようになったのです。
何年かたって、加害者が刑務所から出てきました。刑期が短縮されて出所したのです。
その夜、母は加害者を迎え、自宅に泊めます。一緒に食事し、刑期を務め終ったことを神に感謝し、これからの歩みを祝福する祈りをします。そして、蒲団を隣にして眠るのです。殺人者と被害者の母というより、母と息子のような懐かしさの中で、二人はいたのです。
人が赦され、生かされるということは、真の愛によってのみ可能だと信じます。
そのような愛、これはイエス様の十字架の贖いを信じた人が与えられる愛だと思います。わたしたちもそのような愛を与えられるように祈りましょう。
祈り
生ける神様、御子イエス・キリスト様を十字架につけるほどにわたしたち罪びとを愛し、
受け入れてくださったことを感謝いたします。その愛にこたえることができるように強め、聖霊をお注ぎください。