2021年9月12日 聖霊降臨節第17主日礼拝

2021.0912.Shyuuhou

聖 書  マタイ7章24~27

説 教  人生の土台

 8月の中旬は、線状降水帯というのですか、九州、中国、四国地方では長雨で川が増水・氾濫し、また土砂崩れで大きな被害がありました。家屋浸水、道路が水浸しになりました。またもや死者が出、怪我人が続出しました。尊い人命が失われました。とくに近年、土砂災害の報道がとみに見られます。

 本日の聖書において、24節から27節までを読まれました。人生の土台と説教題にしました。

1.岩の上に家を建てた賢い人

 岩とは、家を建てる土台がしっかりしていることをいいます。

「岩」は旧約聖書では神様を表す言葉です。岩は固く、びくともしない。不動のものですね。キリストを知る前のわたしたちの価値観は、財産や人脈により頼む傾向があります。しかし、本当に頼りになるのは不動の岩である神様です。新約聖書で「岩」は、イエス様です。岩なるイエスは、わがみを御許に引き寄せ・・・賛美があります。聖歌506番ですね。キリストが岩であるということができるのは、神の不動性を表しています。それと同時に、神の愛は変わることなく、動かないものであるということが強く示されています。

 キリスト・イエスの十字架は、わたしたち罪人を愛し、わたしたち罪人の身代わりとなることを示しています。この十字架のキリストこそ、わたしたちの人生の揺るがぬ土台なのです。わたしたちを愛しておられるその神の愛の不動性こそ、わたしたちの生活の土台であります。人生において苦難や苦しみ、病、試練はつきものです。これは大雨や暴風、あるいは台風と同じように、すべての人が経験する問題です。雨が降り、激しい風が襲ってきて、わたしたちの人生を潰しにかかるのです。そのような時に、神を信じ、イエス・キリストを人生の土台として生きていれば安心であり、平安なのだ。これが聖書の意味であります。

トウルニエという精神科医でもある牧師がいました。著書が多数ありますが、その中に「人生を変える」という著書があります。その本にこのような文章があります。

「人生が変えられるために、苦難や苦労なしでは開かれない世界がある」という文です。つまりこういうことだと思います。苦難や苦労を通して初めて、わたしたちの目に見える世界とは別の世界が開かれ、その世界が開かれることによって、わたしたちの人生が変えられるのだと。その別の世界とは、永遠の世界、神の世界、霊的な世界ということです。領域と言ってもよろしいでしょう。

 わたしたちが普段見ようとしない世界です。普段の世界とは、物質的な要求と追求の世界であり、従ってそこにはモノ、カネ、財産といった価値観が主流となります。

 それに対して、永遠の世界、神の世界とは心の領域であり、精神的、さらにその奥にある霊の世界・領域なのだということです。そして、その価値観によって生きている。そう言えるでしょう。

 わたしたちクリスチャンは神を信じ、主イエス・キリストの恵みによって生かされている。先ほど、使徒信条を告白しました。その世界です。つまり、トウルニエの言葉によれば、わたしたちクリスチャンはすでに変えられている、そして永遠の世界、神の世界、霊の世界、そういう領域に生きている。そう言ってよろしいと思います。

 「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハネ3章5~6節)

わたしたちは、新しく生まれ変わった者なのです。

 つまり、人生の土台を主イエス・キリストに移し変えて、そこに平安と感謝、喜びを持つ者と変えられた。キリストを通して苦しみが喜びに、苦難が感謝に、試練が忍耐を通して成熟へと変えられた。これがクリスチャンです。わたしたちもそのようなものへと変えられた者なのです。ハレルヤ。

2.キリストを土台とした家

 人生の土台をキリストに移し変え、人生を変える人は一人で土台に立つのではありません。共に立つ人がいるのです。それが教会です。共感者と申しますか、共に支え合い、助け合い、励ましあう群れとしての教会です。祈りあえる友、心を分かち合う友がいること。そこに教会の喜びと祝福があるのです。

 信仰生涯は、家を建てるようなものです。当然、すぐに壊れてしまう家ではない。しっかりした土台の上に建てられた家。そこに安心して住むことができます。家庭が築かれます。家族の喜び、感謝、会話がはずみます。

そこには、住む人の心の問題もあります。徳を建てるということです。家を建てるとは、徳を建てるものだと思うのです。「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」

キリストのからだである教会を建てる。教会はひとりではありません。兄弟姉妹、家族、多くの信仰者がいます。寄り合い所帯とも言えます。めいめいは、自己主張しません。そこには、信仰と同時に、愛、忍耐をもって寄り添い、もてなしをします。

そこには愛が第一です。聖霊の実を結ぶ。愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制(ガラテヤ5章22,23節)

 昨日は、故網干文姉の告別式を教会で執り行いました。網干文姉のこと。行年98歳。

 本日は、敬老の日を記念する礼拝です。現住陪餐会員136名の内、75歳以上の教会メンバーは48人いらっしゃいます。いま、わたしたちの社会は、高齢社会を迎えています。これからますます高齢化が増えるでしょう。

敬老の方々の人生、その信仰生涯は、主イエス・キリストを土台とした信仰の生涯です。揺るぎのない、しっかりとした土台の上に、建てられた家、そのような生涯を送られてきました。そして、何よりも神の神殿であり、聖霊なる神様がお住まいになっている宮として、自分自身を建て上げていくのです。自分自身を建て上げるとは、キリスト者としての人間としての徳を建て上げていくということです。もう一度申しますが、家を建てるとは、徳を建てるものです。「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」

 ともにキリストにあって徳を建て、愛をもって教会の交わりが深まりますように、教会を建てあげましょう。