2021年8月29日 聖霊降臨節第15主日礼拝

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聖 書  出エジプト記2章11~15

説 教  モ-セの出自

 プロテニスプレイヤーの大阪なおみさんのことは、皆さんご存知でしょうか。彼女は、日本人のお母さんを持ち、父親は米国籍のハイチ人です。アメリカで生まれたので、アメリカ国籍があります。そして、日本の国籍もあるのですね。いわゆる、二重国籍です。オリンピックでは、日本人として最終聖火ランナーを務めました。

 自分はアメリカ人、日本人という二重国籍を持っている。しかも、父親はハイチ人です。彼女の生い立ちの中で、いろいろな葛藤があったことを推察するものです。

 本日の聖書の箇所、モーセ。あの偉大なるイスラエルの指導者モーセ。彼もまた、自分の生い立ちの中で、葛藤を持っていました。葛藤とは、心の中の感情、欲求、動機が交差して、どれを選択するべきか迷う事と辞書にあります。

 モーセが生まれた時、エジプト王により「生まれた男の子の赤子はすべて、ナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ」との命令が出ていたのです。王の命令は絶対でした。そのため、モーセの両親は、3か月の間、隠しておいたのですが、隠し切れなくて、パピルスの籠に入れて、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いたのです。

 その籠をたまたま水浴びに来ていた王女が発見し、籠がどうなるか様子をみていたモーセの姉が機転を利かせて、赤子の乳母がいることを申し出るのです。その乳母とは、モーセの実の母でもありました。モーセは、ヘブライ人の赤子であると王女は理解していたでしょう。それにも関わらず、ナイル河畔に捨てられた赤子を生かそうと決断し、実母に育てさせることを承知したのです。赤子が大きくなり、王女のもとに連れていかれると、王女は成長した赤子を自分の子としたのです。

 つまり、モーセは実の母によって育てられ、ヘブライ人としての自覚の中で成長しました。その間、王女から「手当を」受け、王女の庇護があったのです。大きくなり、王女のところに連れてこられて、王女の子として認知された。そういうことですね。

最初に二重国籍のことを申しました。モーセは、ヘブライ人としての出自とエジプト王ファラオの王女の子(養子)としての二つの身分を持っていたのです。

王女の子として生きていれば、何の苦労もなかったでしょう。エジプトという空前絶後の超大国の支配者階級の一人としてエジプト王の統治に参与することができたのです。

しかし、モーセには自分のアイデンティティと申しますか。自分はいったい何者なのかという問いかけがあったのですね。支配者としてのエジプト王女の息子なのか、あるいは被抑圧階級、奴隷状態で苦しんでいるヘブライ人なのか。その葛藤を抱えて、モーセは成長したのではないかと推察いたします。

このアイデンティティとは、帰属意識のことでもあります。帰属意識とは、「ある集団に属している、またはその集団の一員であるという意識や感覚」を意味する言葉です。帰属意識が高い人は、これらの所属する集団に対して一体感を持っており、愛着や興味・関心などが強いのですね。この集団は、国家ともなり民族ともなります。

オリンピックでは、日本人は民族意識を強くし、日本人のアスリートがメダルを獲得すると喜び、負けると残念に思います。甲子園野球もそうですね。東北学院が一回戦に勝利しました。わがことのように喜ばれたことでしょう。コロナウイルス感染の陽性者が出て、棄権したことで残念に思いましたね。

わたしたちクリスチャンは、イエス・キリストを信じ、神の子とされました。神の国に属する者です。本国は天にあり。神の国の市民となっているのです。

さて、モーセはエジプトの王女の養子となりました。それは、王女の父ファラオの義理の

孫ということです。王女の夫は誰か。聖書はそれを語っていません。生涯独身であったかもしれません。王女は、生涯モーセに愛を注ぎ、出エジプトにおいても共にエジプトを脱出し、カナンの地に入ったとされています。「十戒」という映画はその画面がありましたね。

省みて、王女は父に隠れてヘブライ人のモーセを養子にしました。父のファラオが知ることになれば許されることではないでしょう。殺すように命じられているヘブライの男の子をナイル川の水から救いだし、養子としたのだから。

本日の聖書の箇所は、出エジプト記2章11節から15節までとしました。

1.同胞への愛

 11、12節を読みます。

 成人したモーセは、同胞が重労働で苦しんでいるのを見ます。そこでモーセは、強い同胞への憐れみと同情を持ったのではないかと察します。エジプトの王女の子として自由と権力を持っているのです。一方、同胞のヘブライ人はが奴隷状態で苦しんでいる。しかも、エジプト人が同胞のヘブライ人を虐待しているのを見たのです。

 モーセは強い同情心と虐待しているエジプト人に対して憎しみを持ったのでしょうか。12節「辺りを見回し、だれもいないを確かめると、そのエジプト人を打ち殺して死体を砂に埋めた」のです。

これは、モーセの罪と言ってもよいでしょう。モーセは殺人者となったのです。「なんじ殺すなかれ」十戒の第6戒ですね。

 それでも、咄嗟にエジプト人を殺した。ヘブライ人の血が自分の中に流れていることを強く意識し、同胞を虐待するエジプト人を許さなかったということでしょう。そのことにより、ファラオから追われる身となります。ファラオは義理の祖父です。おじいちゃんと孫の関係です。モーセは同胞のヘブライ人のために何もかも捨てたのです。

このことにおいて、イエス様を想い起しますね。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無に」(フィリピ2章6節)されたのです。

しかし、イエス様は激情でもって人を殺すことはなさいませんでした。むしろ、ご自身の十字架の死によって、すべての人を贖われたのです。

2.神の意志

 「打つ」という言葉、「打ち殺す」という言葉は、神の強い意思がここに現わされていると言われます。神の民であるヘブライ人を虐待するエジプト人への審きがあらわされているというのですね(出エジプト記3章20節)。

モーセは、早くにその神の意思を実行していたのです。後に、10のしるしをもって神はエジプト人を打ちます。最後は過越しという後世に残るみわざを実行されるのです。

 また、次の13、14節ではへブライ人たちの誤解と不信が記されています。翌日、ヘブライ人どうしが二人でけんかをしていたのをモーセは仲裁します。「どうして自分の仲間を殴るのか」と悪い方をたしなめると、「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」と言い返されたのですね。

 ここでは、エジプト脱出後の荒れ野で、神の救いのわざが何度も繰り返し現わされたにもかかわらず、ヘブライの民は不信仰で、不従順でありました。いま、モーセに対しても不信と疑いがあらわされているのです。イエス様も数々の奇跡を行われたにもかかわらず、ユダヤ人たちは、頑なでイエス様に敵意と憎悪を向けました。ここでは、モーセのはじめの行いに対して、それが反映しているのです。 

3.逃亡者モーセ - モーセのアイデンティティ

この出来事がファラオの知るところとなり、モーセを殺そうと尋ね求めるのですね。王女の子が、お尋ね者となり、いのちを狙われることになったのです。しかし、ここにモーセは自分が何者であり、何をするべきか。はっきりと自覚したのです。逃亡先で、神はこれから起きること、虐げられているヘブライ人を救い、助け、アブラハム、イサク、ヤコブに約束された契約を遂行しようとされるのです。モーセは、その指導者として選ばれたのです。

最後に新約聖書、ヘブライ人への手紙11章23節から27節を読みます。

上記の疑問がすべて解決いたします。モーセは信仰によって歩んだのです。その信仰は母が与えたのであり、神の導きがすべてのところにあり、神のご計画であったのです。