2021年8月22日

聖霊降臨節第14主日礼拝

仙台宮城野教会  小川幸子

  ソドムには、アブラハムの甥のロトが住んでいました。 しかし、そのソドムの町が罪に満ちているのを見た主なる神はその町を滅ぼそうとしました。  ソドムが滅ぼされる時、主なる神はロトに、「ソドムの町を滅ぼすので山に逃れなさい。その時、後ろを振り返るな」、と言われました。しかし、ロトの妻は途中で後ろを振り返ったので、塩の柱になってしまいました。ロトは主に、山には登れない、近くの小さな町に行かせてほしいと頼みました。しかし、後日、その町の住民を恐れて結局 山に住むことになりました。 ルカによる福音書では、終末の裁きの時には、ただひたすら逃げなさい、と言われ、その例としてロトの妻のことが挙げられています。そして「自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである」と書いてあります。これでは「命を救うためにひたすら逃げなさい」という言葉と反対のことを言っているように思えます。 しかしこの、「自分の命を生かそうとするもの」というのは、自分や自分の持ち物に執着して、自分で自分の命を救おうとする人のことです。救われるというのは、ただ神の憐れみに頼って救われる、生きるということです。  ロトの妻は、いままで住んできたところへの執着をもって振り返ったのかもしれませんし、ソドムの町がどうなったか見たかったのかもしれません。しかし彼女は命がけで逃げなければならなかったのです。後ろを振り返る余裕はないのです。    私たちが救われるためには、自分のしてきたことを振り返って、それを救いの根拠にするのではなく、自分を捨てて、神の憐れみにすがるよりないのです。後悔や反省をするのではなく、悔い改めをするのです。悔い改めとは、方向転換をすることです。自分ばかり見ている私たちが、神の方に視線の向きを変えることです。  自分の過去や現在の弱さばかりを見るのではなく、神のみを頼りにして生きることです。そこに真の救いがあるのです。