聖 書 ヨハネによる福音書21章1~14節
説 教 魂を漁る漁師として
本日のところでは、イエス様は7人の弟子たちにご自身を現わされたとあります。場所は、ティベリアス湖畔です。ティベリアス湖とは、ガリラヤ湖のことです。イエス様と弟子たちはガリラヤ出身なのです。また、イエス様はガリラヤのナザレの出身です。そして、おもだった弟子は漁師をしていました。ペトロ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネですね。
エルサレムとガリラヤ
ここでエルサレムとガリラヤのことを注目したいと思います。
ヨハネによる福音書は、12章から受難週に入ります。イエス様は過越しの祭に行かれるために、エルサレムに入られるのです。そこで木曜日の洗足、最後の晩餐、夜には捕縛され、裁判にかけられ、十字架刑が宣告されるのです。金曜日はゴルゴタへの道行で、十字架に架けられ、亡くなられます。そして墓に葬られるのです。
これらの一連の出来事はエルサレムで起こったことでした。甦えられてマグダラのマリア、弟子たち、トマスに現れられたのもエルサレムです。
21章に来て、ガリラヤにいるのは、不自然なことと考えられます。ただ、マタイ28章10節、マルコ16章7節では天使があらわれて「ガリラヤへ行くように、そこでイエス様と会うことになる」と言われた記事があります。そのことを受けて、ヨハネによる福音書では、ガリラヤでの弟子たちにご自身を現わされたのだと考えることができます。
本日の21章はガリラヤでの顕現なのです。
1.ガリラヤ
21章1節には次のように記されています。
その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。
「その後」とあるのは、イエス様の復活日と次の週の顕現の後ですね。ペトロはじめ弟子たちはエルサレムを離れてガリラヤに戻っていました。そしてペトロ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネは漁師として生業に戻っています。この日も漁に行くのですが、何も獲れなかったとあります。
20章の復活の時、イエス様は弟子たちに現れた時、「聖霊を受けなさい」と息を吹きかけられました。そして、派遣の言葉を語られたのです。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と。しかし、21章に来て、弟子たちはガリラヤに戻り、漁をしているのです。派遣されて何をするのでしょうか。福音を宣べ伝えることです。主イエス・キリストの十字架と復活における神の偉大なみわざを宣べ伝えることですね。神の贖いのわざが完成し、すべての人は罪から解放されて、救われる大きな恵みです。そして、永遠のいのちにいたる祝福を約束されるのです。それはキリストの十字架による贖いです。
しかし、弟子たちはすぐに、むやみやたらに福音を宣べ伝えることをしません。時期があるのですね。どんな時期ですか。そう聖霊が降臨される時です。それまで待つことが必要です。エルサレムでの1週間の出来事があまりに濃密で、激動の時間であったために、しかも、十字架と三日目の復活、主の顕現という驚愕の中で、弟子たちは動顚したのではないかと推察されます。ガリラヤでの漁は弟子たちにとって、足を地につかせるための穏やかで落ち着いたリズムを回復させることだったでしょう。ガリラヤ湖と周囲の自然の中で、エルサレムでの出来事を振り返る、祈りの時です。
「待つ」時、それが「ガリラヤ」ということです。わたしたち、いまは、コロナ禍の中にあります。新型コロナウイルス感染が蔓延し、イギリス型やブラジル型、南アフリカ型と呼ばれる感染力が強い変異ウィルスがコロナ感染の恐怖感を増しています。大阪では病院のベッドが逼迫しています。「医療崩壊だ」と叫ぶ声もあります。教会も対面での礼拝を休止し、インターネットのみの礼拝配信を行い、かろうじて信仰の火を守っている状況です。教会総会も対面を中止し、議決権行使書での成立としました。
勇ましく街角に出て行って福音を宣べ伝える。それは蛮勇といってもよいでしょう。コロナという嵐が過ぎ去るのを待つ。静まって、祈る。いまはそういう時であります。互いに安否を問い、祈る。その時ですね。
2.ガリラヤ湖での漁
弟子たちはただ待っているだけではありません。備えの時です。そこにイエス様が三度目に顕現されるのです。主イエス様の配慮であり、愛です。それは主の召命の確認です。ガリラヤ湖での漁は、夜に船を出すのが一般だと言われます。ガリラヤ湖は、周囲を山に囲まれた海面下213メートルの淡水湖です。時々、突風が吹き、舟もろとも転覆することがあります。比較的穏やかな夜に、舟を出す。これが漁師たちの知恵なのです。プロの漁師であったペトロたちは、夜に舟を出して漁をします。しかし、一晩中網を打っても一匹も魚は獲れませんでした。
3節後半
「しかし、その夜は何もとれなかった」とあります。プロの漁師でも魚が一匹も獲れないことがあるのですね。
4節
既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
このところはルカによる福音書5章1節からと同じ内容です。ルカは、ペトロの召命の記事でもあります。5節には次のようにあります。
先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。
8節
これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」
ヨハネによる福音書は、同じ内容を福音書の最後に記します。そこには大きな意味があります。21章15節からの内容にも触れますが、ペトロの召命、再献身なのです。
舟は教会を、破れそうになった網は宣教の豊かな実と一致を意味しています。破れるとはギリシャ語では「スキマゾー」と言い、教会の分裂を指す言葉です。ズタズタに引き裂かれるとかバラバラに割れる、分裂分派、cleave asunder、rend、split into factionsというように訳されます。後の時代の危機を予知しているのです。
また、魚がいっぱいになったとは、教会の宣教のわざが神の御手により、大きく拡がったことを指します。
3.153匹の魚
ルカ(5章7節)では漁師仲間数人が網を引き上げています。ヨハネではペトロが一人で網を陸に引き上げています。これはペトロが後に信仰の共同体である教会の指導者、統括者であることを指し示すための象徴的物語であったと言われます。先ほど申しましたように、舟は一般的に教会を象徴します。湖に飛び込んだペトロが、再び舟に乗り込み一人で網を引き上げるのは、イエス様を三度否認したペトロが改めてイエス様に立てられて教会の土台の岩となったという教会の信仰にあります。
「153匹」という数については、これは象徴的な意味を含むとして、古来さまざまな解釈が行われていて、確定は困難です。たとえば、これは地中海にいるとされる魚の種類の総数であり、この出来事は世界の民族のすべてが救いの網に入れられることを象徴するという解釈があります。地中海の魚が153種類であったこと、またはそう考えられていました。(アウグスティヌス)
霊的解釈というイエス様のたとえや出来事を霊的、信仰的な意味があるとして解釈するのです。あるいは、類比(アナロジー)としていく聖書的な解釈方法です。
たとえば、666という数字がヨハネの黙示録にあります。13章18節ですね。
すべての者にその右手か額に刻印を押させた。そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である。
666という数字は、当時のキリスト教会を迫害し多くの殉教者を出したローマ皇帝のネロであるとされています。旧約聖書が書かれているヘブライ語は数字を持たない言語で、一つ一つの文字に「ゲマトリア」と呼ばれる数字の意味も含まれています。それでアルファベットが数字に置き換えているのです。
ペトロたちは、獲れた魚を数えたのでしょうか。7人では食べきれない魚だったでしょう。冷蔵庫もありません。塩漬けまたは日干しにして日持ちをよくしたのでしょうか。
15節以降では、そのペトロに対してイエス様は羊を飼いなさいと、再献身の召命を与えられるのです。
4.食卓
9節を読みましょう。
さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。
イエス様は用意周到にペトロたちをもてなされるのです。漁をしても魚がとれなかったペトロたちの疲れを労わるように、わざわざイエス様ご自身で炭火をおこし、パンと魚をもって弟子たちをもてなされるのです。
13節
イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。
パンと魚は、五つのパンと二匹の魚とで5千人の人たちに食事を与えられた出来事を想い起こします。また、復活後、エマオに行こうとする二人の弟子に現れ、エルサレムで起こった出来事について語った後、エマオに到着して食事をするとき、パンを裂いた時に弟子たちの目が開かれた出来事を想い起します。ルカ24章30,31節
イエス様はいま、ここにおいても食卓をご自身で起こされ、弟子たちをもてなされるのです。
いま、わたしたちはコロナ禍のために対面での礼拝を休止し、また聖餐式も行っていません。昨年のイースター礼拝の前から行っていないのです。しかし、現実のパンとぶどうの杯はいただかなくても、主イエス様はわたしたちをみ言葉により霊的なパンと杯を与えてくださるのです。そのことを信じます。主イエス様は、礼拝堂に誰もいなくても、このインターネットで配信しているYou tubeにおいて、現臨されておられることを信じます。いつもの聖餐式と同じように。
ヨハネによる福音書は、イエス様の復活と顕現、そして弟子たちと共に食事をされ、聖餐、愛さんにより、主イエス・キリストを中心とした神の国の食卓と交わり、永遠のいのちの恵みをあらわして終わっているのです。そこに、まことの回復といやしがあります。
祈ります。