2021年4月18日 復活節第3主日礼拝

2021-0418-Shyuuhou

聖 書  イザヤ書56章9~57章2

説 教  もっとも大切なこと

本日と次週の説教において、イザヤ書56章と57章を取り上げます。2021年度の仙台青葉荘教会の年間標語は「回復といやし」、また聖句は57章18節「わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいやし、休ませ、慰めをもって彼を回復させよう」とさせていただきました。

 その想いですね、意図するところは、2021年度の教会総会議案書の事業計画(案)にも記しましたが、以下の通りです。二つあります。

第一は、聖句と標語をもって、生きたキリスト者の生活を目指すことを願います。

新型コロナウイルス感染の猛威が収束することなく1年以上続いています。日本国のみな

らず、世界中の人たちが傷み、苦しんでいます。感染の不安と感染後の治療の長期化、重症

化などで医療施設の逼迫が危ぶまれます。ワクチンが広くいきわたり、収束の一歩となる

ことを願います。

また、地球温暖化、環境汚染、経済格差、人種差別など地球規模で問題が山積しています。病んでいる社会の回復のために、主なる神は立ち上がられます。その信仰ですね。

第二は、コロナ禍のために教会の活動が制限されました。また、この一年の間に、今まで元気に礼拝出席、奉仕にも積極的な複数の教会の兄弟姉妹が病のため入院、手術、自宅療養中にあります。本当に驚き、主のみこころを問うたことです。「神様、なぜですか。どうしたのですか」 そのように、真剣に祈り、神様のみこころを問うたことです。

以上、この二つの祈りの課題をもって、社会の回復と教会員個々のいやしをテーマにし

て聖句を選びました。教会は社会にも目を向ける。当然のことであります。社会とわたしたち個人の信仰と生き方に密接な関係があることを強く意識することです。

そこで本日と次週礼拝で、このイザヤ56章9節以下と57章を取り上げたいと思います。

 1.バビロン捕囚

 バビロン捕囚はイスラエル民族(ユダヤ民族)に決定的な影響を与えました。神の守りと神の祝福をいただいたダビデ王朝とエルサレム神殿、エルサレムの都。イスラエル民族の誇りでした。神への篤い信頼と信仰があったのです。しかし、その神殿が崩壊し、ダビデ王朝、ユダ王国の滅亡は驚天動地の出来事でした。なぜ?という問いかけをしました。神の守りがあったはずではないか。深い反省。捕囚期間の反省です。そこに神の懲らしめ、懲戒、裁き。自分たちの不信仰だと受けとめたのです。

 日本が明治から昭和にかけて、軍国主義に進んだ時、日本は神風が吹き、八紘一宇の天皇、現人神がおられるので、すべて守られている。その狂信的な信仰と似ています。

 しかし、現実にイスラエル民族は消えていく運命にさらされたのです。これがバビロン捕囚でした。その経験が哀歌という歌になっています。エルサレムの陥落とエルサレム神殿の破壊を嘆く歌であり、バビロン捕囚の時代につくられたものです。エレミヤの作とされています。

 哀歌のいくつかをお読みしましょう。

哀歌4章10節

憐れみ深い女の手が自分の子供を煮炊きした。わたしの民の娘が打ち砕かれた日、それを自分の食糧としたのだ。

 バビロン軍に包囲されたエルサレムの市街には、食料はなく、飢えの苦しみに襲われたのです。飢えをしのぐために、自分の子どもを殺し、その肉を食べたというのです。

哀歌5章11節

女たちはシオンで犯され、おとめたちはユダの町々で汚された。(口語訳)

君侯は敵の手で吊り刑にされ、長老も敬われない。

若者は挽き臼を負わされ、子供は薪を負わされてよろめく。

長老は町の門の集いから姿を消し、若者の音楽は絶えた。

わたしたちの心は楽しむことを忘れ、踊りは喪の嘆きに変わった。

国が亡びるということ。言葉では言い尽くせない悲惨、凄惨さ、苦しみ、嘆き、人間として想像もできない惨たらしい事実。若者の音楽は絶えた。いつの時代も若者は音楽を奏で、そのエネルギーを発散させます。創世記にも同じ表現があります。音楽の喜びも慰めもない、奴隷の苦しみを味わったのです。

 ユダの人たちはこの苦しみの原因は、神の裁きだと受けとめたのです。そして、徹底的な悔い改めと信仰復興へと導かれました。それは、律法を守ること。ファリサイ派の起こりです。ユダヤ教の成立とされています。→ 日本、アメリカはじめ連合軍の占領、民主国家へ

2.解放、歴史の悲惨さを超えて

 歴史は繰り返すと言われます。戦争の悲惨さ、苦しさ、凄惨さを経験しても、時が過ぎればその悲惨さを忘れて、同じ轍を踏んでしまうのです。人類は幾多の過ちを犯してきました。戦争の歴史です。21世紀の現在に至るまで、戦争のなかった時代はないでしょう。いまも、シリアやロシアとウクライナは戦争状態です。ミャンマー、中国、北朝鮮も軍備を増強して戦争に備えています。

人間の欲望、支配欲が小さなものを踏みにじり、犠牲になるのです。そこには一握りの権力者たちの傲り、高ぶり、権勢欲があります。

 先ほど哀歌の一部分をお読みしました。戦争の悲惨さは銃後の人たちの生活といのちです。だれが犠牲になるのか。子どもであり、女性です。

 第二次大戦での戦場、沖縄戦、東京大空襲をはじめする主要都市の空襲、仙台も空襲を受けました。そして、ヒロシマ、ナガサキ。アウシュビッツ捕虜収容所での残忍さ。

 日本は国内だけではありません。軍隊を派遣して、侵略戦争をしたのです。中国、韓国・朝鮮、東南アジア諸国ですね。日本は被害国ではないのです。

 日本は敗戦後、奇跡の復興と言われるような経済大国になりました。朝鮮戦争という特需がアメリカを凌ぐような経済力で世界経済を牽引するようになったのです。しかし、バブルが崩壊しました。

 そして、東日本大震災、フクシマ原発の悲劇。東日本大震災 マグニチュード9の大地震と大津波が襲いました。2万人を超える死者と行方不明者です。フクシマ原発のメルトダウンは、世の終わりを思わせる出来事です。

 歴史は繰り返します。21世紀に入り、中国が台頭してきます。文化大革命後の貧困を脱出。豊かさと繁栄を誇るようになりました。中国はアメリカを凌ぐといわれるような経済大国となりました。経済が興ると高ぶってきますね。

 ただいまは、新型コロナウイルス感染の猛威、疫病です。人が殺しあう戦争ではなく、原爆で一瞬のうちに数十万人の命を奪うのでもなく、目には見えないウィルスによって、貴い人命が失われているのです。この一年間で、世界ではコロナウイルス感染により300万人の命が失われました。感染者1億4000万人。日本は、感染者52万人、死者は9,500人です。(2021年4月17日現在)

 先週、4月14日のニュースでは、ブラジルでコロナ感染により、一日4000人の命が失われました。累計33万人ということです。

人の死は、戦争であれ、病気であれ、いのちの貴さは同じです。

 これらのことを通して、わたしたちは何を学ぶでしょうか。何を理解するでしょうか。

この現実をもって、なお、神は世を愛しておられるという信仰です。東北、日本、世界を愛し、救いへと導かれる神の愛、歴史の支配者、統治者。この方が、わたしたちが信ずる父なる神様なのです。

3.もっとも大切なこと

 今日の聖書の箇所は、バビロン捕囚から解放後のことです。ペルシア王キュロスはバビロンを都とした新バビロニア帝国を滅ぼし、ユダヤ民族をバビロン捕囚からの解放とエルサレム帰還、神殿再建を許可しました。新しい神のみわざが現わされたのです。しかし、現実はすぐには満足がいくような結果とはなりませんでした。エルサレムに帰還し、国を再興していく。しかし、現実は甘いものではありませんでした。周囲の国との争い、貧しさ、失望し、期待が潰えた。帰還した民は、なかなか前に進まないもどかしさがあふれます。一体、何のための帰還だったのか。

 イザヤ書56章9節から57章2節において、二つの立場が記されます。ひとつは指導者とされる人たちです。

見張りはだれも、見る力がなく、何も知らない。口を閉ざされた犬で、ほえることができない。伏してうたたねし、眠ることを愛する。 この犬どもは強欲で飽くことを知らない。彼らは羊飼いでありながらそれを自覚せず、それぞれ自分の好む道に向かい、自分の利益を追い求める者ばかりだ。「さあ、酒を手に入れよう。強い酒を浴びるように飲もう。明日も今日と同じこと。いや、もっとすばらしいにちがいない。」

見張り、犬は、敵や悪、罪に対して目を覚まして立ち向かい警告する人です。犬は番犬ですね。やはり不審者がくると吠えて、周囲の人たちに警戒を呼び覚ます役割をもっています。その役割が果たせていない状態です。彼らは羊飼いでありながらとあるように、当時の、指導者たちのことを言っています。力不足と腐敗、怠惰が批判されているのです。

 もう一方は、57章2節ですね。

神に従ったあの人は失われたが、だれひとり心にかけなかった。神の慈しみに生きる人々が取り去られても、気づく者はない。神に従ったあの人は、さいなまれて取り去られた。しかし、平和が訪れる。真実に歩む人は横たわって憩う。

 腐敗していく時代にあって、見張りの役割、番犬の役割をして、しっかりと時代の動きを見つめ、警告をする。預言者の働きです。その人は、神に従った人です。新改訳では義人と訳されています。「神に従ったあの人は、さいなまれて取り去られた」とは、難しい訳ですが、新改訳は「義人はわざわいから取り去られて、平安にはいり」、口語訳は、「正しい者は災の前に取り去られて、平安に入るからである」です。

 教会というのは、後者ですね。神に従う人であり、神の慈しみに生きる人々です。そこには、価値観の違う人たちからは、見向きもされない。気づく者がいない。しかし、神と共に生き、目を覚ましている。罪と滅びが来ることを警告していく。預言し、福音を宣べ伝え、祈っていく。教会の姿です。贖われた民としての自覚です。

歴史を支配される神、主権者、統治される神がそこにおられるのです。神の憐れみを乞い願う。神は傷つき倒れた人々、絶望し、希望が見えない人々に慰めを与えられる。真の希望、それは虚しいままでは終わらない。神に信頼するということ、神に依り頼むこと。その姿勢を見失わずに、礼拝する民としての信仰を守り抜きましょう。イエス・キリストにおいて、神は贖いをされておられるのです。