聖 書 ヨハネによる福音書20章19~23節
説 教 主の顕現
先週、わたしたちはイースター礼拝を持ちました。主のご受難、十字架の死、墓に葬られた。その三日後の復活です。主の十字架によってすべての人間の罪が赦された。これがわたしたちの信仰ですし、代々にわたって教会が告白してきた信仰です。そして、復活された。人類の歴史が決定的に変わった日です。神が人となり、その方がわたしたちのために、十字架にかかられ、死と滅びから赦しと贖い、永遠のいのちへ導かれたのです。ハレルヤ!
死でもって終わるではなく、復活から始まる。これがキリスト教の歴史であり、力なのです。
神は、人間に神の力と愛を知らせるために、人となり、死に打ち勝たれ、復活を示されたのです。そこにわたしたちの希望があります。
さて、先週はヨハネによる福音書20章1~18節から説教しました。1節「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た」
1.平和
この後に、復活されたイエス様はマグダラのマリアにご自身を現わされたのですね。そして、19節。今日のところです。マグダラのマリアに現れたイエス様は、夕方に弟子たちのところでも現れられました。19節をお読みします。
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように」
イエス様は、夕方に弟子たちに現れられたのです。不思議ですね。戸に鍵をかけていた部屋に入られて、真ん中に立たれたのです。そして弟子たちに言われるのです。
「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。
マグダラのマリアには、「わたしにすがりつくのはよしなさい」(17節)「わたしにさわってはならない」(口語訳)と言われたイエス様ですが、夕方になり弟子たちには「手とわき腹をお見せになった」のです。
24節以下は、トマスのことが記されています。イエス様が夕方部屋に入って来られた時、トマスはいませんでした。あとでイエス様が来られたことを聞いて、トマスは信じませんでした。25節後半「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言ったのですね。気持ちが分かりますね。
26節以下をお読みします。
さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」
21節戻りますが、次のように言われます。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように」
復活の主は、平和をお与えになるのです。恐怖でも不安でも、怯えでもありません。死者から甦ったというと、恐怖感、不信感の方がまず感情的に湧き上がってくるのではないでしょうか。平和とは、心の安らぎです。神との和解です。
イエス様の受難と十字架の時、弟子たちはイエス様を見捨てて逃げてしまいました。その罪責感があったかもしれません。主への裏切り、イエス様を知らないと否認したことも弟子たちの心のわだかまりとしてあったかもしれません。
復活は主イエスの約束でもあったのです。
14章19節 「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」
16章16節「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」
16章19節 「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」
復活されたイエス様の弟子たちへの最初の言葉が「あなたがたに平和があるように」と二度言われたことは、特筆すべきです。
マタイによる福音書5章9節
「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」とあります。
主イエス様の復活は平和の実現です。すべての人たちに平和を与えられるためです。和解、赦し、光、愛のある状態です。繰り返しますが、和解、赦し、光、愛のないところでは、平和もありません。無関心、拒絶、憎しみだけです。闇の世界です。
第二は、派遣です。
これは19節と反対ですね。弟子たちはユダヤ人を「恐れて」閉じこもり、不安で心がいっぱいでした。しかし、イエス様が復活のお姿を示されることで、元気づいたのです。その点では、心が定まった時、弟子たちは派遣されるのです。そこにはどんな迫害や弾圧があっても、恐れない心、信仰へと導かれます。それは人間が自分の内からくる力や勇気ではなく、神から来る力、勇気、大胆さです。
21節 あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい」
派遣は聖霊を受けることなしでは、困難です。派遣される者は、イエス様の愛を知り、体験した者です。3年間の訓練、いつも主イエスと共にいて、イエス様の息吹に触れ、その精神を熟知しています。
わたしたちも派遣される者です。わたしたちはイエス様をどれだけ知っているでしょうか。 イエス様の息吹に触れているでしょうか。祈りの座にとどまることによって、わたしたちは主に触れるのです。礼拝の場にとどまることによって、主を見、そのみ声を聞くのです。
派遣される者は、自らの弱さを知り、体験した者です。イエス様の苦難と受難に際して、イエス様を否認し、捨てて逃げ去りました。臆病であり、自分勝手な醜い自分自身の姿を
さらけだしました。わたしたちもそうです。日々の信仰生活の中で、証し人として立てられているにもかかわらず、公の前でイエス様を知らないと言い、イエス様を見捨てて、逃げ去っているような状況です。
しかし、派遣される者はイエス様の復活の証人として派遣されるのです。そこに、赦しと和解があります。ですから、派遣される者は、主に赦された者であり、和解している者です。
第三は、派遣の内容 罪の赦しの宣言
1と2でお分かりのように、弟子たちはまず自らの罪が赦され、神と和解しなければ、真の派遣につながらないのです。イエス様の恵みは、復活のお姿の顕現は、弟子たちを赦し、和解し、力づけられることにあります。こうして、聖霊を受けることによって、その派遣は力あるものとなります。復活の命と復活の力に裏打ちされた信仰と派遣なのです。
派遣の内容は、罪の赦しの宣言です。赦された者であるゆえに、赦しを宣言できるのです。
23節
「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」
好地由太郎氏のことをお話しましょう。
明治のキリスト者で、好地由太郎という人がいます。
彼の生涯は「恩寵の生涯」という自叙伝で出版されています。彼は1865年(慶応元年)、千葉県の貧しい家庭に生まれ、14才の時に神田に奉公に出されました。18歳のときに奉公先の女主人を殺害、金を奪い、証拠を消すために放火し、無期懲役の刑を受けました。彼は獄中でも脱走を計画し、その度に逮捕され、少しも反省の色もありませんでした。たまたま北海道の刑務所で、冤罪によって収監されていたクリスチャン青年の感化を受け、聖書を読みたいと思うようになったということです。ところが、彼は教育を受けていないので字が読めないです。すぐに飽きてしまいました。
ある日のこと、好地由太郎は不思議な夢をみます。天使のような輝いた顔の少年が現われて「この本を食べなさい。これは永遠の生命を与える神の道です」と告げたというのです。それから彼は、片仮名と平仮名を学び、聖書を一生懸命に読み始めました。イエス様の御言葉に触れ、回心、彼は新しい人生を歩み始めました。腫瘍に苦しむ収容者の傷口から直接口で膿を吸い取って癒すということがあったそうです。一転して模範囚となった好地由太郎は、明治政府の恩赦により釈放されました。23年の獄中生活でした。監獄を出た好地由太郎は、やがて牧師になり、日本全国を回り、また、韓国や中国でも伝道活動を展開し、多くの魂をキリストに導く神の僕となったのです。
何かの美談のよう、また極端のように思われるかもしれませんが、悔い改めて回心し、新しい命を与えられて生きるということはこういうことかなと思わされます。
まさに逆転の人生です。それは、神にある時、すべての人が新しく生きる人生でもあります。そこに復活があるのです。わたしたちは、派遣される者であります。神と和解し、聖霊を受けて派遣される。そこに神の栄光があらわされるのです。
お祈りします。