2021年3月28日 受難節第6主日礼拝

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聖 書   ヨハネによる福音書192842

説 教   死にて葬られ

 2月17日よりレントに入り、主のご受難と十字架の死を覚える日々を過ごしてまいりました。本日より、受難週に入ります。

 イエス様はユダヤの指導者である祭司たちとファリサイ派の人たちによって捕縛され、裁判にかけられます。ゲッセマネから最高法院そしてピラトの法廷です。その裁判は、一方的でしかも暴力的でした。殴られ、侮辱され、鞭打たれ、唾を吐きかけられ、ののしられるのです。神の子が人間によって、辱めを受けます。

 そして、ゴルゴタにて十字架につけられるのです。

1.十字架上の7つの言葉

十字架につけられたイエス様は7つの言葉を話されます。いわゆる、「十字架上の7つの言葉」とされます。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書で記されているイエス様のお言葉です。ヨハネでは、その内、3つの言葉があります。話すというより、ささやく、とぎれとぎれに声を発せられる。そういうことでしょう。両手にくぎを打ち込まれているのですから、痛みに耐えながら声を発せられるのです。

 その中で有名なのが、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」です。「わが神、わが神、なにゆえ、わたしをお見捨てになったのですか」という意味です。詩編交読22編にあります。

 また、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」も有名なお言葉です。ルカ23章34節

 罪なき神の子を十字架につける。そのことをイエス様は父なる神にとりなしをされているのです。自分を迫害する者のために祈る。これが究極的な神の愛、イエス様の愛です。

 ヨハネによる福音書では、イエス様は19章26節「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です」

 そして、19章28節「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして聖書の言葉が実現した。

  この「渇く」という言葉は、旧約の詩編69編22節の預言の成就とされます。

「人はわたしに苦いものを食べさせようとし、渇くわたしに酢を飲ませようとした」

ですね。

 3つ目は、30節ですね。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

 これがイエス様の死、臨終の言葉です。

七つの言葉、次の通りです。

(1)「「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)

(2)「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)

(3)「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」

「見なさい。あなたの母です」(ヨハ19:26、27)

(4)「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(マタ27:46。マコ15:34。詩22:2)

(5)「渇く」(ヨハ19:28)

(6)「成し遂げられた」(ヨハ19:30)

(7)「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46。詩31:6)

2.預言の成就

この後、31節から37節は、マタイ、マルコ、ルカにはない聖書の箇所です。そこに目撃した人でなければ書けない事柄です。まさに、証人です。ここでは、二つの特徴のある個所があります。

 一つは、足の骨を折るということです。二つ目は、兵士が槍でイエス様のわき腹を刺したのです。すると、すぐ血と水とが流れ出たとあります。

 聖書は、この二点においても聖書の記事が実現したと記しています。「その骨は一つも砕かれない」

もう一つは、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」です。

 「その骨は一つも砕かれない」は、出エジプト記12章46節、民数記9章12節、詩編34編21節に記されています。過越しの祭りに際して、小羊をほふるのですが、その骨を折ってはならないとあります。

 また、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」は、ゼカリヤ書12章9節の預言にあるのですね。

 ヨハネによる福音書は、イエス様の十字架の死は、すでに旧約聖書において預言されていたことで、その成就、実現なのです。父なる神のご計画なのです。

 ところで、「兵士が槍でイエス様のわき腹を刺したのです。すると、すぐ血と水とが流れ出たとあります」が、ある註解者は、「血」は贖罪の血を示し、「水」は再生の霊を意味するとしています。つまり、この再生は水の洗礼、バプテスマを意味し、贖罪の血は聖餐のぶどう酒を意味するというのです。

 ヨハネの手紙 第一 5章6節からは、次のような聖句があります。

この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。証しするのは三者で、“霊”と水と血です。この三者は一致しています。

3.墓に葬られる

 最後の段落、38節から42節は、亡くなられたイエス様が墓に葬られる記事です。

イエス様はローマへの反逆罪としての十字架につけられたのですが、普通なら反逆罪としての罪人の葬りは、あらかじめ掘られた穴に投げ込まれ、土を被せられるだけだと言われます。あるいは、せいぜいよくても、共同墓地で、しかも犯罪人です、目立つような墓ではないことは確かでしょう。

聖書は、そうではない。アリマタヤ出身のヨセフという議員がイエス様の遺体を引き取り、「亜麻布で包み、まだ誰も葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた」(ルカ23章53節)というのです。

 このアリマタヤのヨセフについて、他の福音書と比較しながら読んでいくと、興味を注がれます。

ルカ23章50節では

さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。

マルコ15章43節では

アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。

ヨハネ19章38節

その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。 そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。

 マルコでは、「勇気を出して」という言葉があります。犯罪人であるイエス様のご遺体を引き取るのは勇気がいったことでしょう。不利になる恐れもあるでしょう。あとで、何をされるか分からないのです。ヨハネでは、「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた」とあります。ある言い伝えでは、このことのゆえにヨセフは逮捕され、最高法院から追放されたとあります。

 ニコデモはヨハネの3章にあります。「人は新たに生まれなければ神の国に入ることができない」。また、「水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることができない」とイエス様に言われたニコデモです。後に、イエス様の弟子になっていたのですね。

 イエス様を葬ったのは、こういう有力者です。弟子たちは、逃げ惑っていたのですから。その弟子たちに比べれば、ヨセフは確かに勇気の人でもありました。アリマタヤのヨセフとニコデモの二人がイエス様を葬ったのです。そうでなければ、誰も葬られたことがない新しい墓に葬られるわけがありません。そこに神様の備えがあったのです。

 マタイ27章61節では、「マグダラのマリアと、ヤコブとヨセフのマリアが墓に残り、墓の報を向いて座っていた」とあります。

 最後に、本日の聖書でメッセージを受け取るとすれば、二つのことが言えるでしょう。第一は、主イエス様は確実に死なれ、そして葬られたということです。

 わたちたちが毎週礼拝で共に唱え、告白する使徒信条に「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ」とあります。主は、葬られたのです。埋葬された。イエス様は金曜日に朝9時頃に十字架につけられ、3時ころに亡くなったとあります。その間、苦しみと痛みを味合われたことでしょう。手と足には釘を打たれ、十字架から落ちるのを釘が支えていたのです。そして、わき腹に槍を刺されました。

 ヨーロッパには、キリストの十字架や死、埋葬に関する幾多の偉大な画家たちの絵画があります。聖書を題材にした数え切れない絵画が残されています。その中でも、ハンス・ホルバインが描いた「墓に眠るキリストの遺体」1521年作は、わたしたち現代の信仰者にとってまともに見れない絵ではないかと思われます。幅30センチ、長さ2メートルの板に油彩の絵です。

ドストエフスキーに「白痴」という小説があります。その中にある登場人物をして語らせる場面があります。それがこのホルバインの「墓に眠るキリストの遺体」という絵画についてのドストエフスキーの感想です。その中で、こう語るのです。この絵を見ていると、どんなに篤い信仰を持っている者でも、信仰を失くすのではないか。それほどまでに、キリストの死は、現実でありその死体は醜い。

 キリストの死は、現実であり、悲惨であります。しかし、その死をもって、わたしたちが生かされる。これは真実なのであります。そこにキリスト教があります、

第二は、キリストの証人ということです。

福音書は、イエス様の行かれるところ、イエス様と出会い、新しく生まれ変わる人が起こされます。最後の最後においても、キリストの信じる者、キリストの証人が起こされるのです。聖書はそう語っています。十字架の上においても、二人の犯罪人が左右におり、その一人がイエスを信じます。ルカ23章39節から43節。

また、十字架の死に際しても、ローマの兵士である百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と信仰告白するのです。(マタイ27章54節)

墓に葬られる時においても、イエス様を告白する者がいる。これが聖書のメッセージです。アリマタヤのヨセフ、ニコデモ。マグダラのマリア、ヨセの母マリア。この人たちが復活の証人となるのです。どんな厳しい条件でも、境遇にあっても、キリストの十字架と留まり、墓に留まり、見守る。その時、起こることがある。それはキリストの復活の目撃者、証人となれることです。

地から湧くように、イエス様を信じ、弟子となる人が起こされる。教会はその望みをもって、歩んできました。わたしたちもその歩みに連なりましょう。