聖 書 ヨハネによる福音書19章16~27節
説 教 十字架
1.ゴルゴタへの道行
先ほど読まれた聖書の前に19章16節をお読みします。
そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。
ピラトは、ユダヤ人たちが執拗にイエス様を「殺せ、殺せ、十字架につけろ」叫ぶ声に根負けして、イエス様を十字架につけることに同意しました。
そして、彼らはイエスを引き取ったのです。
彼らとは、イエス様を十字架につけるために同行したローマの兵士です。
18節「彼らはイエスを十字架につけた」とある通りです。
17節「イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた」とあります。
「向かわれた」とある言葉は、ギリシャ語では、「出て行く」という意味があります。どこからどこへ? ゴルゴタとは十字架が立てられる処刑場です。エルサレムは城壁に囲まれた都市でした。当時の都市は、どこも城壁があり、外敵から都市を守るために高い壁に囲まれているのです。大きな門を通って、処刑場へと向かうのです。
ちなみにゴルゴタとは、「されこうべの場所」とあります。髑髏つまり頭蓋骨ですね。小高い形が頭蓋骨に似ていることと、そこが処刑場としてよく用いられたので、そう呼ばれたのです。ウルガタ(ラテン語訳聖書)では、頭蓋骨は「カルヴァリア」が用いられ、英語の「カルヴァリー」となります。聖歌399番「カルヴァリーの山の十字架につきて」がありますね。
イエス様はご自身がつけられる十字架を背負って処刑場のゴルゴタまで歩かれるのです。
何度も躓き倒れられたことでしょう。マタイによる福音書では、ローマの兵士は、シモンというキレネ人にイエス様の十字架を無理に担がせたとあります。(27章32節)
ピラトの官邸で、イエス様は鞭で打たれています。それから十字架を背負って歩かれるのですから、尋常の体では、倒れてしまうでしょう。
イエス様が十字架を担って歩かれた道は、「ウィア・ドロロサ」(悲しみの道)と呼ばれます。現在では巡礼者がイエス様の苦難の道行きを偲ぶ場所になっています。
どれくらいの距離でしょうか?
2.十字架
こうして、ゴルゴタに着いてから、イエス様はほかの犯罪人二人と共に十字架につけられます。ルカによる福音書23章34~43節では、イエス様は「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られます。それを聞いた人たち、とくに議員たちも、あざ笑って言うのです。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
聖書は、イエス様を中心にしてふたつの立場があることを示しています。罪のない人が惨たらしい、陰惨な形で虐げられ、なぶりものにされ、死に至らしめられるときに、一方はそれをあざ笑い、あなどり、悪態、悪口をつき、ののしり、憎まれ口をきき、これでも人間かと思うほどに悪い感情を吐露、吐き出すのです。もっと、もっと、やっつけろ。
痛みつけろと叫びます。それが快感となる。人間の罪の姿です。
もう一方は、それを嗜める。哀しみ、憐れみ、傷つく人に対する同情、寄り添うこころ。やさしさ、愛です。
ヨハネにはありませんが、マルコによる福音書は十字架につけられたイエス様のお姿に心を打たれるローマの兵士、百人隊長がいます。そして、イエス様の死を目撃した時、「本当に、この人は神の子だった」と言うのです。信仰の告白です。
3.聖書の預言の成就
23節から24節までは、ローマの兵士たちがイエス様の服を取りあう様子を記しています。24節「彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた」は詩編22章19節からの引用です。
預言の成就です。ヨハネにはありませんが、マタイとマルコでは、イエス様が十字架につけられた時に、叫ばれる言葉があります。有名な言葉ですね。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」です。マタイ27章46節、マルコでは、15章34節です。この言葉も同じ詩編22編2節にあります。
イエス様は、詩編のことばで祈られたのです。
3月18日宮城県知事は、新型コロナウイルス感染対策として緊急事態宣言を出しました。1月の役員会では、この事態がきたら礼拝を休止し、オンラインでの礼拝だけにすることを決議しました。そのために、本日は対面での礼拝はありません。時間の関係で、ユダヤの王についてのピラトが書いた罪状書きについては割愛いたします。
ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれた罪状書きには、いろいろ意味があるのですが、時期が許されればそのときに説教したいと思います。
4.家族
25節以下を読みますと、十字架のそばには4人の女性とイエス様が愛する弟子がいたことが分かります。マタイでは、「大勢の婦人たちが遠くから見守っていた」と記しています。
イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
ヨハネ以外の福音書では、十字架のそばにはローマの兵士以外には誰もいません。ペトロはじめイエス様の弟子たちは、イエス様が捕縛されてからは逃げてしまっています。それでも、十字架のそばに4人の女性と愛する弟子がいることは大きな慰めであると思います。4人の女性の内一人は、イエス様の母であるマリアです。そして、マリアの姉妹、クロパの妻マリア、そしてマグダラのマリア。マリアさんが3人います。
愛する弟子・ヨハネは少年だったと考えられています。ペトロのような大人の弟子たちだと、イエス様を奪還するのではないかとみられ、捕縛されるかもしれません。女性ばかりの中に、少年がいた。そのように考えられるのですね。
イエス様は、十字架のそばで見守っている4人の女性、その一人である母マリアと弟子のひとりに言われます。
母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」 それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
この後、イエス様は息を引き取られ、死んでしまわれるのです。墓に葬られますが、復活されます。イエス様の昇天後、マリアと11人の弟子たちがエルサレムの2階座敷で祈っているところがあります。そこには、使徒言行録1章14節には、次のように記されています。
彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。
こうして聖霊降臨の出来事があり、教会が誕生します。教会は熱心に福音を宣べ伝えていきますが、弾圧・迫害が起こるのです。イエス様の弟ヤコブが殉教します。そのとき、マリアとその弟子はエフェソに逃れたとの伝承があります。
エフェソにはマリアが晩年を過ごしたと伝えられる家を記念する小さい教会堂があり、今も毎年八月一五日にマリアを記念する祭りが行われているとのことです。