2021年3月14日 受難節第4主日礼拝

2021-0314-Syuuhou

聖 書  ヨハネによる福音書18381916

説 教  偽りの裁判

 本日は「偽りの裁判」と題して説教します。

1.偽りの裁判

 裁判にかけられるには、罪を犯すという証拠がなければなりません。起訴が成立しないのです。現代の法治国家ではそれが保証されています。罪を犯さないのに、起訴され、裁判にかけられるのは違法であり、冤罪となります。

 2000年前とは言え、当時のローマ帝国の支配と統治があるところでは、法がありました。北朝鮮や中国人民共和国のような独裁主義、共産党の支配のあるところでは、一方的な裁判があり、政権に都合の良いように法が曲げられます。しかし、ローマはまだ公正でした。

 イエス様は何も罪を犯していないにも関わらず、捕縛され、裁判にかけられます。最初にユダヤの大祭司のもとでの最高法院での裁判、死刑を決議します。その後、ローマの総督であるピラトの下での裁判となります。

 2000年前、ユダヤの国では、死刑以外の罪はユダヤの法律(ここでは律法です)で裁かれるのですが、死刑に関してはローマ帝国のもとで執行されるのです。外国の支配、統治が行われるということは、ジレンマがあるのです。

 ピラトはそのことを理解した総督でしたから、法に反した裁判はできなかったのです。そのために、イエス様に対して、罪を見出せないと言ったのです。18章38節以下を読みます。

 ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。 ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」

すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。

 ピラトは、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいかと」と尋ねると、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返したのです。バラバは強盗でした。

 その後、19章に入り、ピラトはイエス様を捕らえ、鞭で打たせます。兵士たちは、茨で冠を編んでイエス様の頭に載せ、紫の服をまとわせて、イエス様をからかい、悪態をつくのです。イエス様を笑いものにして、ユダヤ人の同情を買うつもりだったのでしょう。

「こんな男を誰が王と言うだろうか。君たちもそのことは分かっているだろう。ローマの総督であるこのわたしがそう言っているのだ」 ピラトはそう考えたことでしょう。

 しかしユダヤ人はますます激高して叫ぶのです。「十字架につけろ。十字架につけろ」と。

 このところで、ピラトは3度イエス様について「罪を見出せない」と言います。

18章38節「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」

19章4節「わたしは彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう」

19章6節「「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない」

罪のないことを分かっていながら、死刑にする。ここに総督ピラトの弱さがあります。

政治にはポピュリズムという言葉があります。「いたずらに民衆の人気取りに終始し、真の政治的解決を回避するもの」として、ポピュリズムを「大衆迎合(主義)」あるいは「衆愚政治」と言われます。人気取りですね。大衆、人民、民主主義は大切ですが、正義、真理を無視して死刑にすることは神のみこころに反しています。信仰者として恥ずべきことです。

まさしく、ピラトはユダヤ人の人気取りのために大衆迎合主義に陥ったのです。

2.憎しみ

 ピラトは、イエス様を裁判にかけたのは、ユダヤ人の嫉妬のためであると理解していました。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」と言いましたが、

 マルコによる福音書15章10節には、

「祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである」と記されています。

 宗教的な妬みというものがあります。信仰という心の世界のなかで、「ねたみ」という人間的な感情が沸き起こります。自分たちの既存の権利があり、それを侵されると憎しみと怒りに変わります。既存の宗教的な立場が侵されるのです。祭司、律法学者、ファリサイ派の人々の立場です。律法という神の言葉の管理人としての立場です。イエス様はまさしく、既存の宗教者たちに対して挑戦的でした。そのことで反感と憎しみを、ねたみをもったのです。

 イエス様は何をされましたか? 奇跡ですね。かずかずの奇跡です。水の上を歩いたこと。嵐を鎮められたこと。婚礼の宴の場で、水がめの水がぶどう酒に変わったこと。死んだ人が甦ったこと。ラザロ(ヨハネ11章)、会堂司ヤイロの娘(マルコ5:21~、ルカ8:40~)、ナインでのやもめの息子(ルカ7:11~17)。5つのパンと二匹の魚。かずかすの癒し(目が見えない人が見えるようになった。口がきけない人が話すようになった)、重い皮膚病の人の癒しなど。神の国についてのお言葉。愛、福音。これは既存の宗教者たちにないものでした。律法を守ることで汲々として、ゆとりがない。律法の本質である愛、寛容、優しさ、親切、温かさ、喜び、感謝。それは神に向けられると同様、互いの信仰者、信仰の仲間に対しても向けられるものです。

 彼らにないものをイエス様は持っておられ、惜しみもなく、与えられたのです。愛、喜び、神の憐れみ、恵み、生きた神の姿です。

自分たちにないものを、イエス様がもっていて、それを惜しみなく分け与えておられる。それが福音です。しかし、ユダヤの人たちはそれを神への冒瀆としてイエス様を死に至らしめようとするのです。

 信仰は愛であり、喜びです。ユダヤの宗教者たちは、信仰の名のために、嫉妬し、怒りに燃えています。そこには寛容、喜び、感謝、神への限りない献身の思いがありません。そこにはファリサイ的としか言えないのです。

マタイ23章では、イエス様はそういうファリサイ派の人たちを徹底的に批判し、断罪されます。ひとつだけ上げますと、次のことばです。

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。

律法学者、ファリサイ派の人たちの反感、反発はいかばかりでしょうか。悔い改めればよいのですが、憎しみと怒りでイエス様を殺そうと計画したのですね。

律法学者、長老たち、ファリサイ派の人たちの憎しみの叫びがあります。ピラトが「わたしはこの男に罪を見いだせない」と言ったのと対照的です。

6節 大祭司と手下とはイエスを見ると、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫んだ。

15節 彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ」

残酷というか、残忍ですね。人間のこころとは思われない。醜悪です。醜いこころ。悪そのもの。それが宗教者の姿でもあります。狂信的です。

神の言葉、愛と律法を説く人の言葉とは思えません。

ピラトは、イエス様を放免したかったのでしょうが、政治的なかかわりのなかで、自己保身に傾きます。

ヨハネ19章12節以下

そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」

この言葉にピラトは、ぐうの音もでないのですね。

マタイ27章24節「かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗った」とあります。手を洗うという行為は、責任逃れのようなものであります。

16節 そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。

裁判は決着しました。

3.十字架へ

 イエス様は十字架の死へと赴かれます。次の段落となります。偽りの裁判。裁判とまで言わなくても、わたしたちは日常の生活において、自分の偏見や先入観で人を裁くことがあります。人間関係において。

先ほども申しましたが、信仰者の敬虔さについて考えさせられます。信仰深い、よく祈ると思われている人は、注意しなければならないと思います。その信仰は自分の流儀から外れる人を憎しみ、裁くようになるからです。ファリサイ的にならないように注意する必要があります。憎しみは一種の狂気です。憎しみほど恐ろしいものはありません。それは人間の正気を奪うことになります。バランス感覚を失うことになるのです。

過越しの祭の時期です。神の救いのわざを感謝するのです。その時に、憎しみでもってイエス様を死に至らしむ。信仰の名によって。まさに自分を失っているのです。サタンの仕業です。

しかし、神はそれさえも勝利へと変えてくださった。残ったのは、人間の醜いこころと愛のない人のこころです。

聖書は、そのような人にならないようにとわたしたちに語っています。

コリントの信徒への手紙 第一 13章1節からを読みます。

たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。

信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

祈ります。

愛のお手本 イエス様、ご自身のいのちをもって滅ぶべきわたしたちを贖い、永遠のいのちへと導かれた主なる神の憐れみと恵みに感謝いたします。

主のみあしのあとを歩むものとならせてください。愛を与えてください。この世のものバラバではなく、イエス様に従う者とならせてください。