2021年3月7日 受難節第3主日礼拝

2021-0307-Shyuuhou

聖 書  ヨハネによる福音書18章28~38

説 教  わたしの国

  • 裁判 

 イエス様はゲツセマネの園でユダヤ人に捕縛されて、大祭司のもとに連行されました。そこで大祭司をはじめとするユダヤの最高法院(サンヘドリン)で尋問されます。これが第一回目の裁判でした。前回にも申しましたように、ローマ帝国の属国となっていたユダヤですが、ある程度の自治は認められていたのです。裁判権もありました。

 大祭司はじめユダヤの最高法院では、すでにイエス様を殺す計画をしていましたし、この裁判においても死刑に定めていたのです。ヨハネによる福音書は、ユダヤの最高法院での裁判については詳しくは記していませんが、マタイ、マルコでは、詳細に記しています。 

そこでは、イエス様が「人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば手で造らない別の神殿を建ててみせる」と言ったという証人の証言があり、次に大祭司が「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と尋問すると、イエス様は答えられます。

 「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」 大祭司は、衣を引き裂きながら言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。」一同は、死刑にすべきだと決議した。

 (マルコ14章61~64節)

 それからピラトのもとに連れて行くのですね。

ヨハネによる福音書に戻りますが、先ほど読まれた聖書、ヨハネによる福音書18章28節から38節において、イエス様はローマ総督であるピラトの邸に連れていかれ、そこでピラトから尋問を受けます。

31節。

ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。

 ユダヤの大祭司を長とする最高法院とローマ帝国から派遣された総督ピラトの間には、いろいろと駆け引きがあります。ユダヤの最高法院の悪賢さと狡猾さがここにあります。軍事超大国ローマ帝国対属国であるユダヤの対立と駆け引きです。

 ユダヤの最高法院には、死刑にする権限がないと言いながら、実際、律法には石打の刑が許されているのです。神を冒涜した場合です。使徒言行録7章では、ステファノが石打の刑で殺されました。裁判もなしにです。

 32節は大切ですね。

 それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。

 イエス様の言葉とは、「上げられる」ということです。3章、ニコデモとの対話の中で、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」と言われたところです。

3章14節ですね。

天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。

 この言葉の成就を指すのです。ユダヤ人による石打の刑ではなく、十字架です。十字架はローマの死刑の道具なのです。

  • わたしの国

ヨハネによる福音書に戻りますが、ピラトはイエス様に尋問します。ヨハネによる福音書には、ある特徴があります。それは、ある人物とイエス様との対話を通して真理の言葉、いのちの言葉を啓示しているのですね。ある人物との出遭いによる対話、あるいは癒しによって起きる論争です。

たとえば、3章のニコデモとの対話(水と霊によって新しく生まれなければ神の国を見ることができない)、4章のサマリアの女との対話(これは生ける水のたとえです。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る)、5章のベツサダの池での病人のいやし(あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ)、11章のラザロのよみがえりの時のマルタとの対話(わたしは甦りであり命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる)などです。ほかにも枚挙に暇ありません。

 ヨハネによる福音書は、こうした対話といやしのわざを通して示していることがあります。それは神の子としてイエス様の姿とちからです。真理であり、命であるイエス・キリストを指し示しているのです。

 いま、裁判の座で、ローマ総督ピラトとの対話でもそれが見られます。36節

「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」

 このキーワードは、「わたしの国」です。3度「わたしの国」という言葉が記されています。そして「わたしの国はこの世に属していない」ですね。

 この「わたしの国」という言葉は、ギリシャ語ではバシレイアと言い、王国、あるいは王の支配、領域と訳されます。この言葉は、たとえばマタイ5章3節。

「こころの貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」の天の国です。ルカでは、「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」と同じ言葉です。

 ヨハネ3章3節「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」

3章5節「だれでも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることができな

い」

 これも同じです。イエス様が言われる「わたしの国」とは、この神の国、天の国です。それは、この世の王国でもこの世の国でもありません。

この世とは違うもの、この世の価値観とは違う世界。これがイエス様の言われる神の国の世界です。この世に属していない、別の世界です。別の国、それは軍事力によらない。経済的強国でもない。人間の心の中の王国。力によるのはない。愛による国です。

精神とこころの国。いやそれ以上の「霊の世界」です。目に見えない霊的な世界がある。

これがキリスト教であり、聖書の世界です。

 神を信じ、イエス様の十字架の贖いを感謝する、その信仰は、この世とは違う世界なのです。次元が異なる。神が支配し、統治される国です。その統治者であられるゆえに「王」であります。

 福音書は、イエス様の十字架の死を前にして、そのことを明確に示します。

3.真理

 37節以下。

そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」

この言葉も今までの繰り返しであり、確認、最後の指摘です。

 真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た 

 真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。

わたしは道であり、真理であり、命である。ヨハネわたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(ヨハネ14章6節)

わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。(8章31~32節)

わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。(8章46,47節)

 あたかもシンフォニー(交響曲)の第4楽章の最後のところで、今までの主題(テーマ)1楽章から4楽章までのすべてのモチーフ(動機・メロディー)が現われ、演奏されるようなものです。こうして音楽用語でコーダ(終結部)のような展開に導かれるのです。

 そのすべてを現わされるのが、聖霊です。聖霊は「真理の御霊」です。何度も申しますが、ピラトとの裁判の場で、イエス様はこの世の国と神の国の違いを強調し、真理について証しをされるのです。

 わたしたちも確認するのですね。毎週の礼拝において、主の祈りを唱え、使徒信条を告白しています。わたしたちの信仰を繰り返して確認しているのです。それはわたしたちが主イエス様によって示された神の国の世界の住民であり、その市民権を持っていること。それはこの世のものではなく、霊的な世界であり、神の属し、永遠のいのちにあずかる祝福を受けたものであるということです。

 「真理とは何か」とピラトは問いかけます。冷笑と言われています。真理は、科学的な真理、哲学的な真理、文学における真理、いろいろあります。永遠不変の道理と辞書にはあります。聖書的には、神のことば、いのちそのもの、神と人間との間にある変わることのない関係性、それはいのちと祝福。これがわたしたちの信仰です。

科学の世界では、一般常識でもありますが、宇宙があります。天体ですね。地球、火星、木星など天体などあります。2000年前は、いやつい100年前でも、月に行くとか火星にロケットを飛ばして火星の土を地球に持って帰ることなど考えもしませんでした。

中世から近世まで宇宙それ自体を知らなかった。宇宙の中心は、地球であり、すべての天体は地球を中心にして廻っていると信じられたのです。月や火星に行くとは知ることもなかった。

科学の進歩は日進月歩です。月や火星だけでなく、ほかの惑星にも行くようになるでしょう。このような科学の進歩と発達によって、別な進歩と発展があるのではないか。そのような可能性がでてこないとは言えないでしょう。

それは、何百年か経って、あるいは何万年か経って、科学は霊の世界があり、その世界に行くことができる。そのような進歩と発展が訪れることがあるでしょう。人類の起源は20万年前との説が有力です。20万年の歴史を人類は、経験してきたのです。これからもですね、科学や人間の知能によって、脳細胞の活性化によって、霊の存在を科学的に認識し、視覚できるようになるかもしれません。そういう時が来るかもしれない。

その時、信仰と霊の世界があり、見える形として神の国があることを知るに至るでしょう。そこで、わたしたちは神と出会うのです。しかし、いま、わたしたちは、信仰において、霊の世界において、すでに神を見ており、体験しているのです。そこに聖霊がイムマヌエルとしていらっしゃるのです。

 わたしたちは、十字架により贖われ、永遠のいのちを賜ったこと。これが真理であることを信じるのです。