聖 書 ヨハネによる福音書18章15~27節
説 教 恐 れ
本日の聖書ですが、このペトロの失敗の記事であります。挫折ですね。救い主であるイエス・キリストを知らないと否認する、裏切る。そういうペトロの失敗と挫折です。読者であるわたしたちにとって興味深い記事は少ないのではないかと思います。
ペトロは、わたしたち自身でもあるという共感ですね。
- 捕縛後の裁判
18章1~11節でイエス様は、ユダヤの群衆に捕縛され、まずアンナスのところに連れて行ったとあります。「その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである」(13節)とあります。ローマ帝国の支配下にあった当時のユダヤでは、裁判権を持った宗教的・政治的自治組織としての最高法院がありました。サンヘドリンとも言います。
祭司たち、律法学者、ファリサイ派から構成されていました。イエス様は、まずこの最高法院に連れていかれたのです。最高法院の長が大祭司です。
ところで、マタイ、マルコ、ルカの福音書には、大祭司の名前は記されていません。ヨハネによる福音書だけが大祭司カイアファとそのしゅうとアンナスの名前が記されています。ヨハネによる福音書を記したヨハネがこの大祭司と知り合いだったと敢えて記したのでしょうか(18章15節)。
ここでまず、ユダヤの自治として裁判を行い、いろいろ尋問して死刑にすることを決議したのです。(マルコ14章64節)
ここで注目すべきことは、マタイとルカでは、最高法院でイエス様を死刑にすることを決議したとは記していないのですね。ヨハネにもその決議のことはありません。18章31節にありますように、ユダヤ人たちは「人を死刑にする権限がない」のです。
したがって、まず最高法院で死刑の決議をして、ローマ帝国の総督ピラトのもとにイエス様を送って、正式の裁判と死刑の執行を任せたのです。
- 大祭司の中庭でのペトロ
福音書は4つあります。それぞれの特色があります。マタイ、マルコ、ルカの福音書は、共観福音書と申します。ひとつの資料(Q資料と申します)を通して、マタイ、マルコ、ルカがほかの素材、資料を追加して記したのです。同じ事実、同じイエス様の言葉が土台にあるのですね。
ヨハネによる福音書は、マタイ、マルコ、ルカとは全く異なる福音書です。共通する資料はありません。ヨハネには、最後の晩餐の記事はありません。また、弟子の足を洗うというイエス様の姿は、マタイ、マルコ、ルカにはありません。ラザロの復活もヨハネだけの記事ですね。
そういう4つの福音書の違いがありながら、共通することもあります。ペトロの否認とイエス様の十字架と復活です。
本日、読まれた聖書には、イエス様が捕縛され、大祭司の屋敷で最高法院での裁判の最中に、ペトロの否認が入っています。これは、念入りに組まれた記事なのです。
ペトロの否認の預言があります。これはヨハネの福音書13章36節ですね。お読みします。
「シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」 ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」
イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
あなたのためなら命を捨てます。そのように豪語します。
「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしはつまずきません」
(マタイ26章33節)
人間的な自信に満ち溢れています。同時にイエス様に対する信頼が強いと思ったのでしょうね。わたしたちはイエス様への愛と信頼よりも、自分の信仰、自分の経験、自分の能力を信頼する傾向があります。
「失敗することはありませんよ。あなたを知らないということはありませんよ。」
ペトロは、更に強く主張します。
「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マルコ14章31節)
しかし、ゲツセマネの園では居眠りをして、イエス様に叱られます。
「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
「心は燃えていても、肉体は弱い」のですね。弱さを熟知されておられます。
ゲツセマネでイエス様は捕えられます。マルコ14章50節
「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」のです。
ヨハネに戻りますが、最高法院に連行されて、夜中に裁判が始まります。ペトロは舞い戻ってきます。大祭司の知り合いであったヨハネの口利きで、屋敷に入れてもらいます。その時、門番の女中がペトロに言います。17節以下を読みます。
「あなたも、あの人の弟子のひとりではありませんか」
ペトロは「違う」と言った。
このあと、ひと呼吸おいて大祭司の屋敷でも裁判があります。イエス様は尋問されます。19節から24節ですね。それからまた、ヨハネの福音書は、ペトロの否認を再度記します。
25節以下です。
ここの段落を読むと、ペトロの否認は簡潔です。打ち消して「違う」と言った。それだけです。27節では、「ペトロは再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた」とあります。
ここのところは、ほかの福音書を読むと、劇的です。まさしくドラマです。
マルコ14章66節以下は、映画を観ているように劇的です。
しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。
女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」
すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。
呪いの言葉さえ口にしたのですね。すごいですね。激しく呪いの言葉を口にしたのです。どういう呪いでしょうか? イエスなんか呪われよ、です。神から見捨てられよ。カタセマチゾー アナセマ (コリント一 12章36、16章22節)です。そういう激しい言葉をペトロは捨て台詞のように吐き出すのです。
徳川時代にキリスト教迫害で踏み絵をしました。それと同じです。ペトロはイエス様の面前で踏み絵を踏んだのです。そして、「神から見捨てられるがいい」と言ってのけ、イエス様を裏切ったのです。
さて、ルカによる福音書22章61節には、
主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。
この振り向いてペトロを見つめられた、イエス様の眼差しは何だったのだろうと興味があります。普通ですと、「それ、言わんこっちゃない。言った通りだろう。お前はわたしを知らないと否認した。この愚か者、弱い人間だ・・・」。そういう意味の眼つきでしょうね。しかし、イエス様の眼差しは、非難する目ではないと思います。人間のこころの奥深くを知り、洞察され、その弱い部分を覆って尊ばれる。逆に慰められる。それがイエス様の眼差しであり、優しさ、限りない寛恕、咎めず赦す、極みまでの愛に満ちた眼差しだと思うのですね。
讃美歌243番の2節の歌詞を想い出します。
ああ主のひとみ まなざしよ 三たび わが主を いなみたる
よわきペテロを かえりみて ゆるすはたれぞ 主ならずや
人間の弱さ、失敗、挫折に対して、イエス様は非難されない、咎められない。赦されている。もう一方の裏切りをしたユダがこのイエス様の眼差しを見つめたなら、自殺しなかったのではないかと思います。
ペトロの否認の背後には、恐れがあったのだ推察されます。どんな恐れでしょうか。
政治的な権力です。死脅しと暴力でもって死んでしまうのではないかという恐れです。 絶大な権力の力―それは悪魔のちからです。香港の自由化への弾圧、中国の民主主義への弾圧。それは暴力と死への恐れでもあります。信仰においても、迫害、弾圧があります。その恐れでもって、イエス様を知らないということがあるのです。そこには、信仰、友情、愛でさえも消え、衰えさせるちからです。ペトロはその権力への恐れに捕らわれていたのです。滅ぼされる恐怖です。
わたしたちの一週間の生活は、あるいは、一生はある意味では弱さと挫折と失敗の連続であるかもしれません。時に、ある人は優越感や勝利に酔いしれることもあるかもしれません。でも、大多数は失敗と弱さのゆえに、責めさいなまれ、苦しく、恥ずかしくしています。その背後に、イエス様はわたしたちを見守っておられるのです。
この主の愛の恵みにより頼みましょう。
ペトロはペンテコステ以後、教会の重鎮、指導者として多くの信仰者から尊敬を集めます。イエス様の一番弟子として栄光の頂点にいたかもしれません。教会の礼拝で、その説教の中で、ペトロはイエス様のご生涯、語られた言葉、イエス様がなさった数々の奇蹟を強く大胆に証ししていたでしょう。そして、最後はいつも主の晩餐のこと、足を洗われたこと、そして、自分自身に対する否認の言葉を話されたことを想い起こしたことでしょう。そして、顔を赤らめ、こころを傷めながらも、イエス様の限りない愛の眼差しについて涙をもって語ったのではないでしょうか。
にがい想い出、しかし、懐かしい想い出です。三度の否認、鶏が鳴く、激しく泣いた。イエス様の優しく人を生かす眼差しを想い出すと、そこにイエス様は生きておられ、現れるように力を受けたでしょう。復活されたイエス様はペトロの前に来て、三度「わたしを愛するか」と呼びかけられました。その度にペトロは、悲しい思いをしました。
ルカ二二章三二節
しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。
そして、甦られたイエス様はペトロのまえに立たれて、あなたはわたしを愛するかと3度も尋ねられるのです。わたしがあなたを愛していることはよくご存じのはずです。そうペトロは答えます。イエス様は「わたしの羊を飼いなさい」と言われます。教会をペトロに委ねるイエス様の愛の表れです。
今、わたしたちはコロナ禍にいます。仙台も日本全体、いや全世界がコロナ禍の中で苦しみ、悶えています。救いと助けを求めています。いつコロナは収束するのだろう。祈ります。主の導きと助けを求めます。教会員の中で、病のなかにいる方々がいます。どうしてだろう? なぜ? そのような痛みの中で、祈り求めています。主よ、助けてください。
いやしてください。そう祈らずにはいません。何とかして、神様のいやしと支えを祈り、強く求めます。
わたしたちは、完全な信仰をもって生きてきたわけではありません。時に、失敗をしますし、償うことができない挫折や過ちを冒すこともあったかもしれません。今日の聖書のペトロのように、弟子たちのように。イエス様を裏切り、見棄てて逃げ去った。裏切りです。 しかし、イエス様の愛は、そのペトロを赦し、過ちを蔽い、新たな使命を与え、教会を委ねられたのです。
ここにいるすべての兄弟姉妹、その家族ひとりひとりに神はキリストの十字架のゆえに赦しと恵み、憐み、慈しみを注いでくださり、生きる命と力を与えられるのです。
そして、永遠も命、神の国の祝福を与えられているのです。