聖 書 ヨハネによる福音書18章1~11節
説 教 わたしである
2016年10月2日にヨハネによる福音書の連続講解説教を始めました。昨年8月9日にヨハネ17章20~26節から「究極の祈り」と題して説教しました。それからローマ書の講解説教をはじめ、アドヴェント期間を過ごしてきました。
このたび来週からレント(受難週)に入りますので、改めて、ヨハネによる福音書に戻り、本日の18章からイエス様の受難と十字架、復活を説教するように導かれたことです。
ヨハネに福音書では、受難週は12章から始まります。エルサレム入城ですね。一粒の麦のたとえがあります。
13章では、弟子たちの足を洗われ、しもべとしてのお姿を示されます。
ご自身の受難と十字架を前にして、イエス様は模範を示されるのです。お手本ですね。
それが弟子たちの足を洗うということでした。「あなたがたも互いに足を洗いあうべきである」。その後、最後の晩餐をともにされます。この時に、ユダの裏切りを指摘され、ユダは食事の席から出ていきます。さらにペトロの離反、否認を予告されます。そして、新しい掟を示されるのです。「互いに愛し合いなさい」です。
14章では、有名なことば、「わたしは道であり、真理であり、命である」と語られました。そして真理の霊である聖霊を遣わされるとの約束をされるのです。
15章は有名な言葉「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である。私に繋がっていなさい」と命じられます。
16章では再度、真理の霊であり弁護者、助け主として聖霊の啓示をされます。「わたしは既に世に勝っている」と締めくくられるのです。
17章では、イエス様の祈りです。十字架の死を前にして、イエス様は弟子たちに模範を示し、弟子たちのために祈られるのです。
さて、本日の聖書の箇所、18章です。1節をお読みします。
「こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた」
2節では
「イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである」
ヨハネの福音書ではゲツセマネの園という言葉はありません。マタイ、マルコ、ルカの福音書ではゲツセマネに弟子たちと行き、そこで祈られるのですが、ヨハネでは、ゲツセマネの祈りはありません。
今日のポイントの一つ目
1.祈りの場所
祈りの場所があるということですね。
イエス様と弟子たちは、祈りに相応しい場所を持っておられ、定期的にそこに行かれて祈られていたことが分かります。イエス様はこのゲツセマネの園をお気に入りとして、弟子たちとともに出かけられていたのです。2節にある通りです。イエス様を裏切ったユダは、このキドロンの谷の向こうにあるゲツセマネの園にイエス様一行が来ていることを知っていたのです。
ルカによる福音書22章39,40節では、「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると」とあります。そこで祈られるのですね。ゲツセマネはオリーブ山のふもとにあるのですね。
そこを祈りの場所とされていたのです。
祈りと賛美を行う場所。皆さんは、そういう場所をお持ちですか。現代は、パワースポットとか言われて、若い人たちが好んで出かける場所があるといいます。
祈りと賛美に相応しい場所。静かなところ、空気が澄んでいる。淀んでいたり、混濁していない。そこに主なる神様のご臨在を感じられる場所。穏やかになり、気持ちが和らぐ。
礼拝堂もそういうところだと思いますね。日曜日の教会、礼拝堂で賛美と祈りが満ちる。
密室を行う部屋。聖書を読み、祈る部屋。
イエス様はエルサレムにいらっしゃると、決まってこの園に来られ、祈られた。
2.裏切りのユダ
先ほどは、2節をお読みしました。そこには、「イエスを裏切ろうとしていたユダ」とあります。そのユダは、3節「一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た」のです。かれらは松明やともし火や武器を手にしていた」とあります。
この松明やともし火というのは、オリーブ山のふもとのゲツセマネの園は、夜陰のために暗く、もしかしてイエス様一行が木の陰に隠れていて、探すために松明とともし火を持って来たと考えられます。しかも大勢なのです。
ここのところでも、マタイ、マルコ、ルカの福音書と異なる記事です。とくにマルコによる福音書では、ユダはイエス様を見つけると接吻をします。マルコ14章44節では、
「イエスを裏切ろうとしていたユダは、『わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃さないように連れて行け』と、前もって合図を決めていた」とあります。そして、事実、イエス様を見つけると、イエス様に近寄り、「先生」と言って接吻したとあります。人々は、イエスに手をかけて捕らえたのです。
ルカ22章48節では、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」とイエス様は言われます。
裏切りのユダという言葉が2度繰り返されています。このユダこそが『イエスを裏切ろうとしていたユダ』と福音書は強調するのです。
ユダは、イエス様が『十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるため』に選ばれた弟子のひとりです。イエス様と一緒に3年の間、生活し、派遣された弟子でした。
そのイエス様をユダは裏切ったのです。しかも、接吻をもって・・・
なぜ、イエス様はご自分を裏切るユダを選ばれたのでしょうか? 二通りの考えがあります。ひとつは、裏切り者としてのユダを選ばれたということです。裏切ることがわかっていても、なお弟子とされたということですね。十字架のために、ユダを選ばれた。
二つ目の説は、たとえ弟子であったとしてもサタンを前にしては、サタンに勝つことはできないということです。それほどまでにサタンの力は強く、サタンは必死になって人間を誘惑し、罪を冒させようとしている。罪を犯さざるをえなくなるというのですね。
そのために祈り、いつもイエス様としっかりと結びつくことが必要です。教会の礼拝、集会に出席することは必要なことです。
イエス様を裏切ったのは、ユダだけではありません。ほかの弟子たちも同じでした。引き渡したのは、ユダですが、ほかの11弟子たちは逃走したのです。弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。とくに、ペトロは裁判の席で、イエス様を知らないと否認したのです。これも裏切りですね。しかし、ペトロは悔い改めました。ほかの弟子もそうです。神様は悔い改める機会を与えておられる。それを拒否するところに、滅びがあります。
3.わたしである
ヨハネによる福音書の最大の特徴は、ここではユダの接吻はありません。打ち合わせも、合図もありません。逃れることなく、隠れることなく、イエス様の方から逮捕に来た人たちの正面に向かわれたのです。
4節
イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。
この「進み出て」という言葉ですね。わたしは逃げも隠れもしない、というイエス様の毅然とした態度です。しかも、5節、6節
彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。
イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。
8節にも「わたしである」と言ったではないか、と重ねて言われます。
ここでは、ヨハネの福音書で今まで語られてきたことの総括が現れていると思わずにはおれません。
この「わたしである」というイエス様の言葉は、ギリシャ語ではエゴー・エイミーです。英語ではIAMです。この形は、ヨハネの福音書を説教してきた中で、何度か繰り返し強調したことがあります。覚えておられるでしょうか。
わたしは命のパンである。6章48節
わたしは世の光である。8章 12節
わたしは門である。10章 9節
わたしは良い羊飼いである。10章 14節
わたしは復活であり、命である。11章 25節
わたしは道であり、真理であり、命である。14章 06節
わたしはまことのぶどうの木である。15章1、5節
この形式は、出エジプト記3章14節に神がモーセに啓示されたお名前です。
神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
6節
イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。
イエス様の気迫がここに現わされています。後ずさりして、地に倒れる。そのような霊的なちからの現われですね。
このお名前をヨハネの福音書は何度も宣言しているのです。
ここには、逃げも隠れもされないで逮捕され、十字架へと進まれるイエス様の確信ですね。その先は十字架の死、しかし三日目に復活する。そのことをここでも宣言されるのです。ここにわたしたちの信仰があります。
そして、わたしたちも後ずさりして、地に倒れるような体験をすることができると思います。主のご臨在に触れる。聖霊体験ですね。
神を観る。これがわたしたちの信仰です。ここにホーリネスがあります。
(聖書に見る神体験、臨在体験)
ルカ5章8,9節 マタイ17章5~8節、ルカ9章28~36節、ヨハネにおける「しるし」