聖 書 ローマの信徒への手紙2章17~29節
説 教 心の割礼
1.よい子、悪い子
日本を代表する心理学者であった河合隼雄氏の数多くある著書の一つに「子どもと悪」があります。そこには「よい子」と「悪い子」がどのように分けられるのかを示しています。
河合氏によれば、「よい子」とは、素直であり、従順、手がかからない、おとなしい、真面目である子どものことであります。「悪い子」とは、反抗的、抵抗する、口答え、言うことをきかない(不従順ということですね)、いたずらをよくする、けじめなくふざける、うるさい、不良、非行ということになります。皆さんは子どもの時、いかがでしたでしょうか。
これは親や大人にとって、「管理しやすい、秩序を守って楽だ」ということであります。
もう数十年前に「期待される人間像」という言葉が当時の文部科学省中教審から出され、流行語のようになりました。そこには、規則や秩序を守り、体制に忠実な人間像が理想とされているのです。
逆に秩序や規則を破る人は悪とされます。「悪い子」なのです。その「よい子と悪い子」の基準は「管理しやすい、予測できる、安心できる、よく分かる」ということでしょうか? 逆に悪い子は「管理できない、予測できない、何をするか分からない、はらはらする、不安だ」ということです。
現代のわたしたちの社会は、学校教育や子育て、しつけも含めて、子どもをこのように分類しているのではないでしょうか? そして、社会は大人をもその分類表に従ってふるいにかけ、判断します。管理しやすい人間像を求めるのです。これは教育の分野だけでなく、職場でもそうですね。
2.信仰の世界での「よい子、悪い子」
では、信仰の世界はいかがでしょうか? 教会(牧師の立場)は決して管理しやすい信徒を求めているのではありません。予測可能な信徒、支配しやすい信徒を養成するのではありません。素直で、従順。よく奉仕をする。献金をする。それは統一教会やエホバの証人のようなカルトでしょう。
同じように、教会(信徒の立場)は管理しやすい牧師、予測可能な牧師、支配しやすい牧師を求め、そのように管理し、支配するのではありません。よく祈り、分かりやすい説教、
短い説教、明るく、優しい。規則や秩序を破る人がいれば、それが信徒であれ、牧師であれ、その人たちは悪であり罪人となります。
しかし、わたしたち一般社会が理解しているように、アンビヴァレンツというのがあります。両義性と申しますか。互いに反する価値をわたしたちは知っており、また人間は持っているのです。それは、これも河合隼雄の言葉でいえば、真に創造的なのは、悪を経験した人であるということです。あるいは、反抗的、不服従、規範に合わない人ということでしょうか? 芸術というジャンルを見ると、真面目で素直、従順な人の作品は面白くも何ともないのと同じです。むしろ、規範に合わないところから芸術が生み出されていると言っても過言ではないでしょう。文学、音楽、美術、彫刻などの分野ですね。
ここでわたしは、真面目さ、素直さを揶揄し、不服従、反抗を奨励しているのではありません。
信仰というのは、はじめから素直で従順、「はいはい」と言うことを聞く人たちのものではないということです。むしろ懐疑、疑いですね、抵抗、不服従者だった者が、神の憐れみと慈愛によって回心し、信じるにいたったものであると思うのです。
放蕩息子、罪びとであったのですね。
また、すべて創造的な人は、反抗的、不従順であるということはありません。これも確かなことです。
3.律法とユダヤ人
本日の聖書は、ユダヤ人と律法に関することがテーマであります。先の「よい子、悪い子」の区分から言うと、ユダヤ人は、自分たちには律法があり、それを忠実に守っているゆえに神にとって「よい子」であります。ユダヤ人以外は、律法もなく、むしろ神を知らず、神に敵対している「悪い子」であります。「よい子」の自分たちは、命と祝福を与えられていますが、「悪い子」の異邦人は呪いを受け、滅ぶべき存在なのです。
これが、聖書が書かれた当時のユダヤ人の価値観でした。
2章17節以下に記されている通りです。17節から20節をお読みします。
「信仰、信仰」と言いながら、本当は不信仰であったというのです。おそらく、当時のユダヤ人ほど信仰的な民族はなかったのではないかと思います。しかし、その神への強い信仰ゆえに、神の愛と神の子イエス様を知ることがなく、むしろ十字架につけたのです。信仰ゆえにこそ見えないものがあったのです。
イエス様は律法の中心は何かをわたしたちに教えてくださいました。
皆さん、覚えていらっしゃいますか? 律法の中心は何でしょう?
そうですね。
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主なるあなたの神を愛しなさい」です。そして、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛しなさい」です。
愛すること、これが律法の中心です。しかし、その本質を打っ棄っておいて、「規則、規則」と重箱の隅をほじくるように、規則違反者を見つけ出し、彼らを非難し、排除するのです。それは罪人の仲間とされた、徴税人、娼婦たちです。イエス様は彼らの信仰によって十字架につけられました。
4.割礼の問題
律法を守ることがユダヤ人の務めでした。そして、ユダヤ人のアイデンティティーが割礼であったのです。ここで言うアイデンティティーとは、ユダヤ人がそれでもってユダヤ人たるべきこと、ということですね。ユダヤ人のしるしとも言うことができます。肉体にしるしがある。それが神との契約のしるしであり、ユダヤ人の個人個人が持っている神との契約の特別なしるしであります。
ユダヤ人の男の子なら誰でも生後8日後に必ず受けなければならない儀式でありました。イエス様も生まれて8日目に受けられました。
5.心の割礼
先ほど申しましたように、割礼は神との契約のしるしです。しかし、ユダヤ人は律法を守ることをしないで、律法の本質である愛を全うすることなく、形式だけを繕っていたのです。つまり、偽善に陥ったのです。形式を守ると偽善的になるのは、人間としての定めのようなものです。表面だけを繕えばいいのです。内面性、精神性を問うことはありません。現代社会も同じです。形だけ、表面だけが整っていますが、内面、精神性を問うことは少ないのです。
そこで、ローマ書2章29節
内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく““霊””によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。
心に施された割礼とは何でしょう?
これこそが本質的な信仰の姿だと言うのです。
①それは名実共に神の民となるということです。形式、表面、うわべだけが神の民でなく、心においても神の民として生きるということです。
エレミヤ書31章33節
しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
②割礼はある面では、新約に生きるわたしたちにとっては、洗礼と同じ意味があると思います。洗礼は、クリスチャンとなったしるしです。わたしはキリストに属するもの、キリストの所有物、キリストのしもべであることを告白することです。割礼のように、身体を傷つけることではありません。それは、わたしたちの心に神のしるしを刻まれること。
どういう洗礼を受けたかを問う教派があります。「滴礼」か「潅礼」か「浸礼」かで、その効果を問う教派があります。これも律法主義になりがちな問題です。浸礼を受けた人でも信仰をなくし、教会に来なくなる人も沢山います。真の問題は、こころの深いところで悔い改め、外見で生きることをしない。神の前で真実に生きることを告白することが、洗礼の真の意味でもあるのです。
③ですから、心の割礼はわたしたちにとって、つぎのように自分に問いかけ、答えるものであります。
「わたしは真にクリスチャンであるか? 生まれ変わったか? 新しく生きているか?」
そして答えます。あるいは、神から答えをいただくのです。
「わたしは、神のものである。罪人であったわたしは、滅びにいたるところを神に贖われ、キリストの十字架の恵みによって救いに与り、永遠のいのちにいたる祝福をいただいた。
ここから、わたしはわたしのものはすべて神のもの、キリストに人生を委ね、時と宝とを神にお返しする信仰の生涯を歩むのだ」
そのように生きるときに、神は必ず大きな祝福と恵みを与えてくださいます。信仰の生涯でそういう経験を持つことは大切です。
ホーリネスの源流であるジョン・ウェスレー(メソジストの牧師)。
彼はいつも教会員に質問したそうです。
「あなたは100パーセントのクリスチャンですか?」
「わたしたちは、何パーセントのクリスチャンでしょうか? 50パーセント? 40パーセント? 80パーセント? 90パーセント?」
すべては神からいただいたものであることを知るとき、わたしたちは、100パーセントのクリスチャンであることを躊躇わずに告白しましょう。