2021年1月31日 降誕節第6主日礼拝
説教メッセージ
1.ヤコブの埋葬の後のこと
ヤコブの埋葬を終えて、ヨセフはじめヤコブの12人の兄弟一行はエジプトに帰ります。本当は、そのままカナンに残ればよいのでしょうが、飢饉はまだ続いています。それにカナンには住むべき場所も家もありません。ヤコブ一族が手にした土地は、墓地、マクペラの畑の洞穴しかないのです。そこに、アブラハム、サラ、イサク、ヤコブが眠っています。また、ヨセフを除いたヤコブの11人の息子たちは、羊飼いを生業にしていましたから、羊はエジプトに残したままです。ヤコブと一族郎党がヨセフを頼りにエジプトに移住したのです。(46章6節、31~34節)
エジプトに帰り、新たな問題が起こります。兄弟たちが自分たちの罪、過ちを想い起したのです。父ヤコブが生きていた時は良かったのでしょうが、ヤコブが死んでから、兄弟たちは不安と恐れに満たされます。
ヨセフが自分たちに仕返しをするのではないかという恐れです。ヤコブという父が亡くなり、重石の蓋がなくなったということでしょうか。ルベンはじめ兄弟11人は、改めて罪の呵責に陥ったのです。夢のことで、ヨセフを殺そうとしたこと。しかし、兄ルベンは殺すのをとめたこと。イシュマエル人の隊商に売ろうとしたこと。父ヤコブには、ヨセフは野獣に食われて死んだと偽ったこと(37章19~33節)。
しかし、ヨセフがエジプトに売られたのは、神のご計画だったのです。ヨセフは、エジプト王の夢を解き明かしたことにより、エジプトの大臣となり、7年間の大豊作の時に、穀物はじめ食べ物を蓄えました。その後の7年間の大飢饉により、ヤコブたち一行が食物を求めてエジプトに下り、そこで大臣となったヨセフと再会するのです。
聖書は、記します。15節から17節ですね。司会者によって読まれた通りです。ヨセフは、言います。19節から読みましょう。
ヨセフは兄たちに言った。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。 あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。 どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。」ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた。
ここには、ヨセフの品性が現わされています。まさしく1コリント13章4~7節にある言葉ですね。
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。
不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
イエス様のようなヨセフですね。柔和で、寛容です。恨みを抱いていません。それは「神が共におられる」からです。苦難の中にあっても、奴隷として売られても、罪を犯していないのに牢獄に入れられても、ヨセフは人を恨むことをせず、自分の不幸を嘆かない。普通なら、むしゃくしゃします。悪口を言います。怒り、嘆き、悲しむ。感情を露わにして激高します。
しかし、ヨセフは穏やかです。むしろ何が起ころうとも、すべてを受け入れる余裕を持っています。それは神がともにおられ、神がヨセフを祝福されたのですね。(39章2節、3節)
「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれた」
監獄に入れられた時も「主がヨセフと共におられ恵みを施し」(39章21節)「主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれた」(39章23)
新約聖書には、使徒言行録16章
パウロがフィリピで福音を宣べ伝えていた時、捕縛され何度も鞭で打たれ、牢獄に入れられました。占いの霊に捕らえられた女奴隷からその霊を追い出したために役人に引き渡されたのです。そしてはだかにされ、鞭で打たれ、牢獄に入れられたのです。
痛みと苦しみで我慢できなかったことでしょう。それでも、パウロたちは真夜中に賛美の歌を歌い、神に祈ったのです。
ヨセフは、自分を殺そうとした兄たちでさえも、ヨセフは慰め、優しく語りかけたのです。
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
(ローマ8章28節)
万事を益とされる神を信じる
はじめに讃美歌90番を賛美しました。
3節 ここも神の御国なれば
よこしま暫しは ときを得とも
主のみむねの ややに成りて
あめつち遂には 一つとならん
とあります。
神がおられるところ、そこに神の国があるのです。
2.ヨセフの死と埋葬
22節以降は、ヨセフの死について記されます。そして、26節ですね。
「ヨセフはこうして、百十歳で死んだ。人々はエジプトで彼のなきがらに薬を塗り、防腐処置をして、ひつぎに納めた」のです。
創世記は、ヨセフの死をもっと終わります。110歳で亡くなります。ヤコブと同じように、薬を塗り、防腐処置をしてひつぎに納められます。しかし、ヨセフの葬儀と埋葬の記事はありません。
これから400年後に出エジプトの出来事が起こります。モーセによってエジプトを脱出したイスラエルの民が、目的のカナンに辿り着くために40年の時を要したことを考えれば、50章1節からのヤコブの埋葬のために、大行列があったことは不思議です。実際にどれほどの日程が必要でしょうか。
薬を塗り、防腐処置されたヨセフの遺体は、出エジプトの時、モーセによってカナンに持ち運ばれます。
出エジプト13章 19節
モーセはヨセフの骨を携えていた。ヨセフが、「神は必ずあなたたちを顧みられる。そのとき、わたしの骨をここから一緒に携えて上るように」と言って、イスラエルの子らに固く誓わせたからである。
400年の間、ヨセフの遺骨は、埋葬されるべきこところに埋葬されていないのです。そして、出エジプトから40年間荒れ野をさまよい、モーセの後継者であるヨシュアによってカナンを占領した最後に埋葬されるのです。
ヨシュア記24章32節
イスラエルの人々がエジプトから携えてきたヨセフの骨は、その昔、ヤコブが百ケシタで、シケムの父ハモルの息子たちから買い取ったシケムの野の一画に埋葬された。それは、ヨセフの子孫の嗣業の土地となった。
ヨセフの埋葬地は、アブラハム、イサク、ヤコブが埋葬されたマクペラの畑の洞穴ではありませんでした。
3.終わりの始まり
創世記50章は、創世記の最終章です。1章の天地創造から始まり、アダムとエバ、ノア-大洪水と箱舟ですね。そしてアブラハム、イサク、ヤコブ、エジプト下り、ヨセフと続いてきました。創世記は天地創造がありますから、世界あるいは宇宙そのものの始まりの記録です。そして生きとし生けるものの命の記録です。そこから人類の物語があります。12章からは、いわゆるアブラハム物語が始まります。イスラエルの始祖の歴史です。アブラハムはすべての国民の父でもあります。ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒の信仰の父であります。
これで創世記は終わりですが、実はここからが本題に入るといっても過言ではありません。創世記のヘブル語は、בְּרֵאשִׁית「ベレーシート」「はじめ」です。
創世記の次は、出エジプト記ですね。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフと続きましたが、出エジプトの出来事において、聖書は劇的に動いてきます。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が出エジプトにおいてご自身を啓示され、救いを実現されるからです。神の偉大な力がヘブライ人、イスラエルに現わされます。この方こそが歴史を導き、創造される神であるのです。
ちなみに、旧約聖書の3つの大きな流れ、3大歴史的な出来事を言うことがありますね。
旧約全体のテーマとなる出来事です。旧約全体のテーマは、神のご支配、導き、統治です。そこに神の救いのみわざがあらわされます。
三つの歴史的な出来事は以下のとおりです。
1 出エジプトの出来事 イスラエルのはじめ、建国、民族の形成 カナン入国
アブラハムへの約束の成就 400年後 中心は、幕屋 律法、過越し
2 統一王朝 ダビデ王朝、エルサレムを首都とし、そこにエルサレム神殿が築かれたことです。
3 バビロン捕囚 国家の滅亡、神殿の崩壊
創世記の位置づけは、はじめのはじめ アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフです。
50章にきて、ヨセフの死。それは、はじめの終わりであり、終わりの始まりということです。すなわち、出エジプトの出来事です。神の摂理です。
終わりはない 人間のうちには。
しかし、神の御手のなかにある
イザヤ書 46 章 10 節に「わたしは初めから既に、先のことを告げ、まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。わたしの計画は必ず成り、わたしは望むことをすべて実行する」
この言葉の実現、成就こそ、イエス・キリストにあるのです。主こそ神、天地創造の時からいまし、いまいまし、代々限りなくいます神なのです。神が人となられ、贖いをもって救いを完成させられるのです。聖書の中心がここにあります。
あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。(ヨハネ5章 39節)
わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。(黙示録22章 13節)
祈り
ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。(ローマ11章 33節)