2021年1月10日 降誕節第3主日礼拝

2021-0110-shyuuhou

聖 書  ローマ書2章1~6節

説 教  神の慈愛と寛容

 「仏の顔も三度」ということわざがあります。《いかに温和な仏でも、顔を三度もなでられると腹を立てるの意から》どんなに慈悲深い人でも、無法なことをたびたびされると怒りだすということです。それは、どこまで怒りを抑えて、忍耐と寛容を示せるかということでもあると思います。

 ことわざの意味は、二度までは赦せるということでしょうか。三度は駄目だよということですね。

 聖書では、イエス様は七の七十倍を赦しなさいと言われます。(マタイ18:22)

ここは、このような言葉で始まります。18章21節から読みます。

そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」

これは七の七十倍ですから、四百九十回までなら赦せるというのではなく、無制限に赦すと言うことです。でも、罪を犯して、傷ついて、そんなに赦せるものなのでしょうか?

 わたしたちなら、イエス様にこう尋ねるでしょう。つまり、「イエス様。そんなに赦したら、付け上がってしまいますよ。増長して、ますます罪を犯しますし、第一、本人が罪を自覚して悔い改めをしないのに、そんなに赦していいのですか?」

 しかし、実際は自分も罪人であり、罪を赦されている者であるということです。この自覚がないと、人の罪ばかりが気になって、肝心の自分の罪の事を忘れてしまいます。人のあら探しばかりして、やっつけようとするのです。これこそが罪深いことです。

 わたしたちの社会、毎日のように、犯罪事件が起こっています。殺人や窃盗、詐欺、脅迫などの事件です。その度に、警察が介入し、司法が裁判に当たっています。

 聖書は、無制限に赦しなさいと言っているのですが、こういう世の中の事件は、わたしたちに無関係ではありません。

 わたしたちは、この世の法律と神の国の法とは違うと言うことを弁えていることが大切です。信仰しているのだから、赦しましょう。無制限に赦しましょう、とは素直に言えない問題があることは確かです。

1.罪を犯せる靈魂は死べし

 聖書でも、旧約では、犯罪者は厳しく罰せられます。レビ記20章及び24章10節以下では、死刑に処せられる罪が列記されています。神を冒瀆した者、父母を呪うものは死刑に処せられるのです。これが律法でした。そして、この律法は神の義の現れなのです。神の裁きの強い意志なのですね。

 神の義というのは、神は罪を嫌われるということです。神は完全な聖であられるゆえに、罪と穢れを寄せ付けない。こんなたとえは相応しくないかもしれませんが、完全な無菌室のような状態でしょうか? 少しの菌でも耐えられない。ですから、少しの罪でも、神は怒りを露わにし、裁きの鉄槌が下るのです。

まるで新型コロナ・ウィルスに感染した重症者にたとえることができるでしょう。病院の隔離室に入れられて、これも完全防護服を着た医師や看護師たちの手当てを受けています。

罪はこのようなコロナ・ウィルス、疫病の細菌にたとえられるでしょうか? 罪がそのようなものなら、わたしたち人類はとっくに滅びていることでしょう。

 ローマ書1章18節から32節までに記されている罪のリストに対し、神の怒りと裁きは抑えがたいものがあろうかと思います。世の人々の退廃ぶりは目を覆うばかりです。

 今度は、パウロの矛先はユダヤ人に、そしてローマ教会のユダヤ人キリスト者に向けられます。ユダヤ人たちは自分が神の律法を持っていることで安んじ、割礼を誇り、異邦人を盲人だとか愚か者だと軽蔑し、自らは手引きする者・教師であるとふんぞりかえっていたからです。そのくせ、やっていることは同じです。

 2章1~3節

だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。 神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。

 ユダヤ人たちは、自分たちのことを選民、エリートとして誇っていたのです。神に選ばれた民、律法を与えられた民として誇りにしていました。割礼がそうです。しかし、選ばれた民は、選ばれた責任があるのですね。何のために選ばれたのか? 誇るためではない。

それによって、神の栄光を現し、神に仕えるように、人々に仕えていく。そういう謙虚さを神は求められているのです。

2.神の慈愛と寛容、忍耐の富

 それでも、神は怒りを抑え、裁きの鉄槌を下すことを躊躇っておられる。これが神の慈愛と寛容です。「仏の顔も三度」ではなく、「七の七十倍」まで赦していく神の慈愛でもあります。

 しかし、人間はその神の慈愛と寛容を軽んじている。これがパウロの考えです。

4節は、とても大切な言葉ですね。

あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。

神は、わたしたちが悔い改めるように忍耐し、待っておられる。それが神の慈愛と寛容なのです。

1.罪を犯せる靈魂は死べし

  これは文語訳です。エゼキエル18章4節ですね。新共同訳は、「罪を犯した者、その人が死ぬ」です。これが律法であり、この世の法律でもあります。しかし、聖書はその続きがあるのです。エゼキエル書18章31、32節にはこのような言葉あります。

 「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。

旧約聖書でも、レビ記とエゼキエル書は罪と裁きについてかなりの違いがあります。エゼキエル書にある神の言葉は、ほとんど福音です。

神は誰の死を喜ばれないのです。「立ち帰って、生きよ」です。ルカ福音書にある放蕩息子は、まさに立ち帰って生きたのです。いのちを得たのです。しかし、兄はむしろ、弟の滅びを願ったかもしれません。

本日のローマ書2章は、このことを言っているのです。

3.裁きと赦し

 なぜ、神はそこまで慈愛と寛容と忍耐をされているのか? 神の怒りと裁きはどうなってしまったのかと思われます。実際に、神の怒りは現れるでしょう。

5節

あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。 

この怒りの日は、最後の審判の時でもあります。その時に、神の義が現れるのです。それは同時に、神の救いの成就、実現の日でもあるのです。これが、聖書が示す最後の審判と救いの時でもあります。聖書が示す最後の審判と救いの時。神の国の到来と永遠のいのちです。 

でも、神はなお限りない赦しの神であることを信じます。なぜなら、神の怒りと裁きはキリストにおいて現れたからです。本来、罪を犯し、裁きを受けるべき罪人が赦され、罪のない神の子、イエス・キリストが裁きを受けた。これが贖いということですね。法律用語で言うと、冤罪です。罪を犯さなかったのに、裁かれた。しかも、十字架につけられて死なれた。エスケープゴートですね。十字架は神の裁きと愛。

ここに神の義が現れたのです。すなわち、誰でも、キリストを信じる者は救われるという神の恵みです。

ある面では、わたしたちの社会はこういうエスケープゴートを必要としているのではないかと思います。誰かが犠牲になっている。その犠牲の上で、社会は成り立っている。イエス様はそれを甘んじて受け入れられた。そして、十字架上で「父よ、彼らをお赦し下さい。何をしているのか分からないでいるのです」と執り成しの祈りを捧げられたのです。

ここに究極の犠牲、罪なくして死なれた方の愛と恵みがあると信じます。まさに、慈愛と寛容と忍耐です。

わたしたちは、この主イエス・キリストを救い主として信じているのです。

この神の恵みに慣れっこにならない。罪を赦され、いのち、永遠のいのちを与えてくださったことを感謝し、大胆によろこびをもって神を証ししていく。ここに新しく生まれ変わったクリスチャンとしての勤めがあるのです。聖霊なる神の恵みと祝福があることをいつも自覚し、感謝して進みましょう。