2021年1月17日 降誕節第4主日礼拝

2021-0117-Shyuuhou

聖 書  ローマの信徒への手紙2章7~16

説 教  神の正しい裁き

 信仰生活をしていると、数々の疑問にぶつかります。友人から、未信者の家族からも質問を受けるかもしれません。

「信仰していても、ちっともあなたは変わらないね。」

「自己中心で、家族や他の人への配慮がないように見える。」

「キリスト教は愛だというけれど、あなたには愛がない」

「あなたは真面目だけど、正直者は馬鹿をみるで、世の中むしろ悪い人がのさばり、栄えているではないか。あなたの神は公平ではない。偏りを見て見ぬふりをしている」

「この格差社会をもっと、公正になおすことはできないのか」

 そのほか、病気や苦しみ、痛み、仕事の負いきれない重荷、人間関係の悩みなどクリスチャンを襲う問題は沢山あります。

これらの質問、時に攻撃的な質問や悪意のある質問もあります。優しく疑問をぶつける人も当然います。わたしたちは、これらの質問にどう答えるでしょうか? 

そして大事なことは、わたしたち自身も信仰に入る前には、同じような疑問を持ち、答えを捜し求めていた者であるということです。完全な解決は見いだせなくても、ある程度の答えを見出し、納得して信仰の道に入り、進んでいるのだと思います。覚悟ですね。信仰の道を進むと言う覚悟と決意です。

 さて、本日の説教題は「神の正しい裁き」です。聖書は裁きについて記しています。

 以下の3ポイントで説教いたします。

1.神の正しい裁き

2.人を分け隔てされない神

3.キリスト・イエスの裁き

1.神の正しい裁き

 5、6節

あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。神はおのおのの行いに従ってお報いになります。

 罪人は裁きを受ける。これが聖書のメッセージです。しかし、罪人にもいろいろあります。大きな犯罪を冒した人。小さな罪もあります。わたしたちは、誰一人正しい人はいません。人間はみな罪人なのです。「義人はいない、ひとりもいない」(ローマ3章10節)のです。    

 そして、罪を犯した人は裁かれる。これも聖書の教えです。その裁きの基準と申しますか、規範はどこにあるのか? ユダヤには律法によって裁きがあります。しかし、律法のないところでは何を基準として裁かれるのか。聖書は、良心が規範であるというのです。

 12節以下です。

律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。 律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。

 そして15節ですね。

こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。

 (良心 συνείδησις(スネイデーシス、動詞は、スネイドン。共に見る)、良心(conscience))

良心こそが律法になっているのです。その良心を与えられた方こそ、天地万物の創造者である主なる神様です。神は、ご自身にかたどって人間を造られました。神の像(かたち)として、人間には生まれつき良心が備えらえているのです。それは、神の賜物であり、霊的な性質です。

2.人を分け隔てされない神

 11節

神は人を分け隔てなさいません。

分け隔てがないは、他の訳では、「偏見がない」とか「偏りみられることはない」「神にはえこひいきなどはない」とあります。神は公平であり、公正な方です。まさに、依怙贔屓がないのです。天地万物の創造者である神は、人間を平等に造られたのです。

ここで一つの問いかけをすることができるでしょう。すなわち、今まで福音を聞いたこともない人はどうなるのか? 神が裁かれるのなら、そのことを聞いた事も知らされることもなかった人たちはどうなるのか? そういう問題に対してパウロが答えたものであります。7節以下ですね。

すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。 神は人を分け隔てなさいません。

 ある面では、信仰のあるなしに真理を求める人には永遠の命が与えられていると言ってもよいでしょう。そして、反抗心に満ち、不義に走る人は怒りと憤りという神の裁きに定められているというのです。

 それが分け隔てなさらない神の裁きということです。

それでは、神を信じなくてもいいのではないかという意見がでてくるでしょう。聖書はそのことを屁理屈と言います。屁理屈という言葉はありませんが、16節を読むと、そのように理解されるのです。

3.キリスト・イエスの裁き

 16節

そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。

 イエス様が来られたこと、すなわち、神が人となられたことは、十字架の恵みにあります。

十字架とは、罪あるものを義とする神の特別の恩寵なのです。

マタイによる福音書25章31節以下では、イエス様はもっとも小さい者にしたことがイエス様にしたことであると言われます。

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、

羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。

お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』

すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』

そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

 本日は阪神・淡路大震災が発生した日でもあります。1995年1月17日ですから25年前です。多数の死者、被害が出ました。

 東日本大震災、2011年3月11日。10年前です。

今ここに、地震で苦しんでいる人たちがいます。家が壊れました。家族が下敷きになり、亡くなりました。傷ついています。上下水道が使えません。つまり、トイレが使えません。水道の水も飲めません。風呂にも何日も入っていません。そんな状況にある人たちが現にいるのです。それを見て、知って、どうしますか? 

ボランティアが全国から来られて復興のために尽力されました。教会はボランティアのために宿泊を提供し、食事のお世話もしたことです。これも最も小さい者の一人にしたことですね。

 大雪の被害、そして何よりも新型コロナ・ウィルスの感染の非常事態の中。苦しんでいる人たち、感染して苦しみにある人たち、その家族、医療従事者、経済的困窮者。

 この嵐がやむのは、いつになるだろうか? 主よ、憐れみください。

マタイ25章45節

『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』

こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

基本的に、そのように良心に迫られるとき、愛の行動を行う人は、福音を聴いたら受け入れ、信じると思うのです。そこに神が働かれると信じるからです。

そして、「忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになる」のです。

 中村哲さんについては、ご存じのことでしょう。九州・福岡出身の脳神経内科を専門とするお医者さんですが、クリスチャンでもありました。キリスト教海外医療協力会(JOCS)から派遣されてパキスタンペシャワールに赴任。以来、20年以上にわたってハンセン病を中心とする医療活動に従事されました。タリバンなどの武装勢力と政府との抗争が強く、危険なところです。2000年の大干ばつ時の赤痢患者急増をきっかけに、清潔な飲料水の確保にも取り組むようになりました。また、自給自足できる農村の回復を目指し、農業事業にも取り組まれたのですね。井戸掘り、用水路工事。ときに、現地の住民の要望によりモスク(イスラム教の礼拝堂)やマドラサ(イスラム教の教育施設)を建設されました。ご自分の信仰や教理に固執しない。神に仕え、教会に仕えることと、現地の人々を愛し、彼らのイスラム教信仰を尊重することと矛盾しないのですね。

 2019年12月4日 テロ 銃撃により逝去。

 貧しい人たち、虐げられた人たちのために生涯を捧げられた。

 わたしたちキリスト者は、中村哲医師と同じことはできません。しかし、祈ること、捧げること、貧しい人、弱っている人、苦しんでいる人がいれば声をかけ、助け、慰めることはできます。そのようなクリスチャンとして神に仕え、教会に仕え、世に仕えていくことを願います。

祈りましょう。